”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

アンドレ・ジイド「狭き門」(岩波文庫)

2004年11月24日 | 「Weekly 読書感想」
「世界の青春書」。いつかと思いつつ11月2日読了。プラトニックとか純粋愛の原点と言うのも憚るような本書に胸の痛くなるような感興を覚えたのだから、汚濁にまみれた私の感受性もまだ捨てたものではない。

文学作品を作家の閲歴や著述歴から傾向分析、解説する向きがある。あるいは作品そのものより作家論に傾く。そうした読み手はまず「あとがき」や「解説」を読んで、やおら序を読み、肝心の作品中内身は読み飛ばし、一端の読書通になる。しばしば私もそういう読み方をするが、本書は素のまま作品に向かった。
作家や作品について事前の知識無しでいきなり作品に接し、その記述内容だけでどの程度理解出来るかというのも読書力が試されるだろう。まあ、ある程度は内容知っているものの、そんな気持ちで本書を手にし、十分感応した。

だからジイド前作の「背徳者」は自己解放の、後作「狭き門」は自己抑制のそれぞれ行き過ぎを説いているなどという論を読むと途端に本書の魅力が相対化され、つまらない気分になる。「背徳者」と比較しながらジイドの二重性から本書にアプローチするのは本書の持つ作品の魅力を弱めこすすれ強めることは無いように思う。
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小林秀雄「モオツアルト」(新潮文庫)

2004年11月22日 | 「Weekly 読書感想」
名著として有名なエッセイ。以前から「音楽は聴くものであって、書くものか」との疑念抱きつつ、いつかと思い岩波文庫を幾度も探し、先日新潮文庫で見つけた。

私もそうだが、クラッシクはモーツアルト・メロディーに魅せられ、その源流のハイドン、さらにヘンデル、重いバッハに遡り、一転重厚壮大なベートベン・シンフォニーに突き当たり「これは何だ!」と感じつつ、やがてストラビンスキーからシェーンベルク現代へ。モーツアルトLPわずか2枚しか持っていないのに、わがスノビニヅムここに極まりです。

ともあれ本書、スタンダールやニイチェ等のモオツアルト評、とくに傾倒していたゲーテはベートベンを「騒音」と言わぬばかりに忌避したとの記述に接するとわずかに理解出来た。書中、楽譜の断片が書かれているが著者は楽譜が読めたのか。

何度か見た「フィガロ」「ドン・ジョバンニ」「コシ・ファン・トウッテ」等へのコメントには「へー、そんなものか」位の解釈しか出来なかった。もとより、この批評大家の著を私などが完全に理解できる筈はない。むしろ、戦前にこうしたオペラが日本で公演されたのだろうかと思った。とくに「コシ・ファン・トウッテ」は日本で戦後遅く公演されたと聞いたことがあるが、私の知識では定かではない。

84年にアカデミー8部門を受賞した映画「アマデウス」に描かれたこの天才作曲家の日常生活での軽薄・喧騒に驚いたが私の生まれた1940年代に書かれた本書にこの映画の性格描写のシナリオを見る思いだ。してみるとモーツアルトのこうした性癖は昔からよく伝えられていたのだろう。
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高村薫「新リア王」/高樹のぶ子「サザンスコール」(新潮社)

2004年11月12日 | 「Weekly 読書感想」
 先頃、掲載紙の日経と悶着起こしながら連載を終わった高村薫の「新リア王」。
 マックス・ウェーバー政治学の小説化とも思われる著者の野心、政治と信教、俗界と天上、父と子の相克、その筋には興味尽きない構図と取材振りだろうが、延々と続く独白調の記述手法にはどうしても付いていけなかった。それでもこの著者の「マークスの山」は以前に読んだが。
 その昔同じく日経連載された「失楽園」を出勤するや経営者が、挙って読んだと言われるが、私は「こんなことあるものか」といずれも読み続けることが出来なかった。

 高樹のぶ子の「サザンスコール」は熱狂的な愛読者を持つ著者の1990年から翌年にかけて日経夕刊に連載されていた作品、文中に散見する宮古とか下地、紅型とかいう文字に惹かれ、著者の取材振りに感心しながら何度か読んだが、どうしても読み通せなかった。
 先日古本屋で600ページを越す新潮文庫版を見付け、改めて手にしたが蠱惑的な沖縄の下地少女描写が何か類型的で今回も20ページ弱で放棄。「沖縄の女は皆そんな風に見えるのか」と言うのは過剰反応だが。いつかまた手にする時があるのか。
 まあ、読み始めたものの途中で放棄する本も結構多い。本の内容というより、読み手である私のその時の状況や心境に左右されているのかもしれない。
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増渕英紀 「うたばうたゆん」(朝崎郁恵CD解説)

2004年11月04日 | 「Weekly 読書感想」
 もともと「島歌」とは奄美大島特有の呼び方で、沖縄には無かった。奄美では「島」はアイランドというよHome やVillage(故里・村)の意味で、それも私達が小学校のころは例えば「須子茂ブラク」と呼んでいた。 後年故里の人達が「集落」と呼ぶのを聞いて強い違和感を覚えた。想像するまでも無く、学校教育の結果「部落」が禁非用語になったのだろうが、懐かしい言葉を奪われたような気がする。

 島を離れた後年、大島にはカサン(笠利・龍郷)節とヒギャ(東)節があることを知ったが南の我が故郷・瀬戸内を何故ヒギャ(東)と呼ぶのか判らなかったが、著者の解説によって宇検村辺りを東方村と呼んだ名残 と言うことを知った。それでも加計呂麻の地元では自らをあまりヒギャ節とは言わない。著者は地勢なだらかなカサンの歌は穏やかで大らかなのに対して、地形起伏に富んだヒギャでは上下振幅の激しい歌と説いている。

 著者は限られたスペースの中で古今東西の音楽文化を紐解きながら、民俗・フークロアを捕集・探求するように島歌の背景を説いている。一遍の名著、論文と言える。

 収録されている「行きゅんにゃ加那」、出稼ぎか嫁ぎ行くのか老いた両親と島を去る娘の相聞別れ唄、島の人達はこうした思いと場面を何度も繰り返したのだろうかと言い知れぬ悲しみが蘇る。頂いたCD歌詞に「立神」とあるのを聞 くと、これはカサン節かと何だか淋しくなった。
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朝吼夕嘆

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