「世界の青春書」。いつかと思いつつ11月2日読了。プラトニックとか純粋愛の原点と言うのも憚るような本書に胸の痛くなるような感興を覚えたのだから、汚濁にまみれた私の感受性もまだ捨てたものではない。
文学作品を作家の閲歴や著述歴から傾向分析、解説する向きがある。あるいは作品そのものより作家論に傾く。そうした読み手はまず「あとがき」や「解説」を読んで、やおら序を読み、肝心の作品中内身は読み飛ばし、一端の読書通になる。しばしば私もそういう読み方をするが、本書は素のまま作品に向かった。
作家や作品について事前の知識無しでいきなり作品に接し、その記述内容だけでどの程度理解出来るかというのも読書力が試されるだろう。まあ、ある程度は内容知っているものの、そんな気持ちで本書を手にし、十分感応した。
だからジイド前作の「背徳者」は自己解放の、後作「狭き門」は自己抑制のそれぞれ行き過ぎを説いているなどという論を読むと途端に本書の魅力が相対化され、つまらない気分になる。「背徳者」と比較しながらジイドの二重性から本書にアプローチするのは本書の持つ作品の魅力を弱めこすすれ強めることは無いように思う。
文学作品を作家の閲歴や著述歴から傾向分析、解説する向きがある。あるいは作品そのものより作家論に傾く。そうした読み手はまず「あとがき」や「解説」を読んで、やおら序を読み、肝心の作品中内身は読み飛ばし、一端の読書通になる。しばしば私もそういう読み方をするが、本書は素のまま作品に向かった。
作家や作品について事前の知識無しでいきなり作品に接し、その記述内容だけでどの程度理解出来るかというのも読書力が試されるだろう。まあ、ある程度は内容知っているものの、そんな気持ちで本書を手にし、十分感応した。
だからジイド前作の「背徳者」は自己解放の、後作「狭き門」は自己抑制のそれぞれ行き過ぎを説いているなどという論を読むと途端に本書の魅力が相対化され、つまらない気分になる。「背徳者」と比較しながらジイドの二重性から本書にアプローチするのは本書の持つ作品の魅力を弱めこすすれ強めることは無いように思う。