私が入学した昭和34年頃、琉大総合グランド建設に絡む史跡「放生池」の埋立問題が琉大開校に奔走した翁長先生(斉藤陽子さん・ご尊父)はじめ当局を悩ましますが、今思うとあろう事か、新入生の私が地元紙大学を難詰する以下のような投稿・暴挙します。
以下その詳細。
「埋立問題に対する琉大の態度」(1959,8,3「琉球新報」(声)投稿記事
「琉大の総合グランド建設に絡む史跡「放生池」の埋め立て問題は先に文保委会で埋め立てることがすでに決まり、琉大側も当然賛同するものと思っていた。
問題の発端から琉大は始終埋立を主張し、安里学長も琉大側の意見として埋立賛成を新聞に度々表明していた。
しかるに今頃になって文理学部の教授陣が埋め立て反対の意見書を出したと言う。世人は驚いた。従来まで琉大側の意見は統一したものとばかり思っていたらそうではなかったのである。それとも教授陣は琉大側ではないというのだろうか?例えそうでなくとも「初めから埋め立てに反対」(琉球新報23日夕刊掲載某教授談)であったのを何故いままで黙っていたのだろう。過ちて即ち改めるに憚らない、というならともかく「当然文保委法によって保護されるものと楽観していた」(同)という態度は責められるべきであろう。反対を表明するならもっとするべき良い時期があったと思う。
反対理由に「植民地大学というレッレルを返上するためにグランドの建設を含めた本学の施設配置計画を再検討し大学本来の姿に戻すべきだ」(23日新報夕刊)といっている琉大側としては配置計画がどうしても再検討する余地がないなら、貴重な史跡まで埋め立て従来の計画を推進しようとしているのではないか。又、たとえ施設配置を変更したところで殖民地大学と言うレッテルは返上出来ないと思うが。埋め立て問題はレッテルなどとは無関係だと信ずるがどうだろう。
教授陣はその意見をはっきり世人も納得するように開陳すべきと思う。なぜなら大学にしろ、史跡にしろ直接間接住民と関係があるからだ。
今度の文理学部教授陣の反対表明は琉大事務当局には足元から火がついたようにそのあわたかたが想像される放生池問題はまだろっこく我々も嫌気がさしていたが、琉大の教授陣はそれにさらに油を注いだようだ。今後琉大の内輪揉めはどうなるかわからないが、そんなことをしていると植民地大学どうの項の言う前に世論は琉大側から離れていくと言うことを教授陣にしろ事務局にしろどちらも銘記すべきだろう。(重田辰弥=無職)」