”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「金城師匠、40周年おめでとう!」

2009年12月31日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 先般、歌手・三沢あけみさんが帝国ホテルで行ったデビュー50周年記念パーティで沖縄テーマの「ウミンチュ恋歌」を発表したこともあり、琉舞も公演出来たらと言うことで、高校同期の金城康子・康舞会家元を紹介、好評を博しました。
 実は金城さん、その1週間後引きも切らせず門下・お弟子さん50余人を引き連れ、サミットが開催された沖縄名護市の「万国津梁館」と奄美大島沖永良部で道場開設40周年「二島合同里帰り記念公演」実施されたのを知りビックリしました。この不況の最中、集客大丈夫かと思っていましたが、結果は何と両会場とも満席だったとのこと。その後引続き、東京琉球舞踊協会事務局長として東京公演にも出演、協力された。
 高校卒業後、単身上阪、96年玉城流家元・玉城盛義より琉球舞踊免許取得以来、今日まで関西、東京、沖縄と全国に10以上の道場を開設し、数百人のお弟子さんを擁しする一方、ご子息さんをしっかり後継者に育てられ、現在もた週毎に東京、大阪を往復の活躍。
 同期とは言え、その衰えを知らぬ意欲と組織力、継承パワーに感嘆!康子さん、遅ればせながら開設四〇周年おめでとう御座います。
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「美良樹吟呼,百十踏揚を演ずる」

2009年12月31日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 「重田さん、沖縄では知り合い多く、癒されホットするでしょう」としばしば言われます。ある面その通りですが、反面沖縄では気が許せず、疲れることもあります。その理由は街を歩いても何所に行っても「重田さん、沖縄に来ていたでしょう」と何処かで誰かが必ず見ており、気を許せない一種の疲れを感じます。実のところ、浜松町でモノレールから降りると“群集の中の孤独”ならぬ“群集の中の開放感”とも言うべきある種、ホッとします。
 そんなことほざきつつ、先日の訪沖中、例のアクターズスクール・メジャーデビュー1期生の美良樹吟呼さん母娘と会食しました。もともと琉球王朝第一尚氏の血を引く“サー高い“(霊感高い)この母娘、折から故与那覇朝大画伯の喪も明け、地元・沖縄市の「越来祭」で尚泰王女「百十踏揚」を三回演じ終わったばかり。達成感もあったのかこの日の吟呼さん、久しぶりに往年の生気溌剌。引き続き20日には首里城王府故事・国頭辺戸での「大川お水取り」復活行事にも主演しました。
 実は私の執務室に故与那覇画伯が吟呼をモデルに描いた伝説の「百十踏揚」(ももとふみあがり)画を掲げています。                 
             
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「我故郷・須子茂を語るクライナー教授」

2009年12月27日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 故郷・奄美は加計呂麻島の須子茂を著したのは川畑秀俊「時は光の彼方に」と喜島範俊「あの日、あの時」、教職OB両先輩の思い出の記がありますが、30年前に学術・民俗的観点からの須子茂に滞在、フィールド調査、研究結果を著したボン・ウィーン大学日本研究所長のヨーゼフ・クライナーの「南西諸島の神観念」に出会った時の衝撃は忘れられない。
そのクライナー教授が今月18日、法政大学沖縄文化研究所(屋嘉宗彦所長)・公開講座「昭和30年代の奄美調査から見た沖縄の宗教」講演を知り、師走忙しい最中、スケジュールやりくり聴講に駆付けました。
 以前にも書きましたが、クライナー教授は20代後半に私の故郷・奄美大島は加計呂麻島の須子茂部落の従姉妹叔母・泉島子叔母さん宅に4ヶ月近く滞在寄寓し、上記論文を書かれた。この日はこの調査研究を基に奄美・沖縄の信仰生活を話されましたが、講義の中に私の親戚やオボツヤマ、ヒニャグラ、ミャ等々忘れかけていた懐かしい呼称、地名等が次々に出て来て、100名を越すこの日の聴講生中、最も興奮、集中したのは間違いなく私だったと思う。
 私が大学を卒業し東京で就職、難儀している頃、私と同年のクライナー教授が我が故郷の須子茂に滞在、民俗研究に没頭していたことを思うと、何とも言い難い思いに駆られました。教授のお陰で我が生地・加計呂麻島・須子茂が民俗学上不朽の部落になったことは無上の喜びです。講義後、挨拶に伺ったら、以前お会いした私を覚えられており、別棟の沖縄文化研究室で有志と共に暫し懇談しました。
 屋嘉所長、クライナー教授殿!零細企業オーナーとしての売上、不況対策等課題を暫し忘れる貴重な機会作って頂き有り難う御座いました。
           

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「往時茫々如夢、友遠方来懐也」

2009年12月25日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 独立、創業前の勤務先㈱ビジネスコンサルトン時代の嘗ての部下と言うより同僚だったお二人が“代表辞任”慰労一席を設けて頂き恐縮。共に4期後輩、還暦遥か過ぎ。
 昔の同僚といっても10年弱の勤務、私学文系の私がよくも阪大、千葉工大理学のプライド高いこの二人を部下としてマネジメントしたかと思ったら、果たせるかな、一緒に席を並べたのは2年弱、揃って私を尻目にスピンオフ。それぞれ中小企業診断士から東京都職業訓練講師、大手サラ金IT責任者から独立コンサルタントと今日のキャリア形成。
 今を去る30数年前、共にIT黎明期のソフト会社営業担当者として合宿、時に個性的、世に疎い天才プログラマー連を相手に口角泡を飛ばした過日を懐かしく回顧、往時を過ごした懐かしの東京駅八重洲地下街で時の過ぎるを忘れ談論痛飲しました。
“往時茫々如夢、友遠方来懐也”金井君、忠さん、招来感謝!
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「沖縄に続く東京の結婚式典」

2009年12月23日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 先々週の沖縄事業所社員の結婚式に続き、先週土曜日は東京本社社員の結婚式と披露宴に出席しました。二週続いた結婚式でしたが、沖縄と東京、披露宴の形式に地域のカルチャーの違いに大変興味深さを感じました。
 他でも書きましたが、本土・東京の結婚披露宴は新郎新婦のご両親名による招待が多く、従って御両家親族は披露宴会場入り口に近い末席で控え、招待者をお迎えする形式に対し、沖縄の場合はご両親が新郎新婦と上席に並び、参加者が祝する形が一般的です。参加人数も本土は通常数十人規模に対し、沖縄は数百人規模。
 本土では乾杯の挨拶・音頭前に酒を酌み交わすことはまずありませんが、沖縄では入場早々点々に飲み始めます。また、本土・首都圏でも参席者による祝賀の歌や詩吟が時折見られますが、通常舞台パフォーマンスが無いのに対し、沖縄ではほとんどの会場には舞台があつらえられ、必ずと言っていいほど、親族、友人達による演舞が複数あり、多くの場合参加者全員によるカチャーシ(手踊り)で宴の〆となります。
 いわば、本土の粛々としたセレモニー形式に対し、沖縄は賑々しいフェステバル形式。表現色彩は違うとは言え、新たな人生のスタートに対する厳粛な覚悟と歓喜が交々共通に流れています。          
             
                (披露宴出席の本社従業員と記念のショット)

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「創新塾第59期創業・発表会に出席しました」

2009年12月21日 | 「講演・セミナー」
 師走の慌しいスケジュールを縫って先週17日、溝の口で実施された経営コンサルから税理事務所、人材派遣まで幅広く事業展開する「創新グループ」が実施している起業、経営セミナー「創新塾」の“経営計画発表会及び卒塾式”に出席しました。
 それというのも講師を務める宮城加代子後輩の日頃の熱意と発表塾生知人の激励を兼ねて。塾は月1回の座学・実践口座を12回。今回の卒業生は建設業、英語塾、カウンセリングと多彩な業種5名。すでに経営している社長や幹部にこれから創業を目指す卒塾生がビジョン、経営理念、方針、数値目標とトンガリ、基本戦略をそれぞれ一人20分で発表。
 卒塾生の強い決意と溢れる情熱に触れつつ32年前に手探り、素手で創業した自分自身を思い出し、感慨深いものがありました。この塾の特色のひとつはSWOTのStrengthsを摘出“トンガリ”と固有化していることと基盤が税理だけに、私に弱かった数値目標とその実現方途がしっかりしていること。
 ただ、志半ばで去って行った仲間と自らを振り返り、経営は情熱だけでは難しく、時代背景や運にも左右される。“人は成功より失敗から多く学ぶ”という思いから決意表明と成功談だけでなく、忌憚の無い失敗、挫折談機会への思いも増して来ました。

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「95歳!恩師山元先生壮健に感嘆!」

2009年12月17日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 先週、ナハマラソン参加の沖縄滞在中、老健センターに入居の今年95歳になられる小学校恩師・山元芙美子先生、その後気掛かりお訪ねしました。
 先生、私の顔を見られるや、ベッドから身を起され「あら!タツヤ君、何時来たの!あんたの会社、今度のリーマンショック、大丈夫?あんた、この間新聞に載っていたね」と矢継ぎ早の質問に以前に増して驚きました。毎日地元両新聞を丹念に読まれる上に、枕元の「難度漢字の読み方」という文庫本を指し、笑いながら「ボケ防止に読んでいるのよ」と言われる。
 「貴方はクラス全員を相手に、議論したよね」「君を連れて転入に来られたお父さんは私の同じ歳だったね。沖縄の人とは少し違った雰囲気だったのを覚えていますよ」等々に当時の同僚教師、旧友の名前が次々に出て辞去するタイミングが掴み難いほど、元気にお話は続きました。最近、人の名前が思い出せない自分の薄らボケと比較し先生の矍鑠振りにはホトホト降参、感嘆!
 先生は私達小学6年卒業送り出しを最後に現場を離れ、市、県教育委員会に転じられます。余程その人柄と見識を買われたのだ思います。当時の稲嶺校長が先生の離任を強く惜み、慰留されたのを覚えています。下の写真は今を去る56年前、先生が現場を離れる最後の写真、お手元に無いとの事でしたので、敢えて掲げました。先生、何時までもお元気で!
             

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「経営・IT協忘年・慰労会」

2009年12月16日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 先日、関東沖縄経営者協とIT協合同忘年会終了後、スッタフ慰労会に参加しました。この最中、二次会に繰り出した幹部メンバーから「重田さん、島尻・玉城議員さん達も達もお待ちですよ」との電話を貰いました。慰労会抜けて合流するも一方ですが、翌朝の役員会を控え、後ろ髪引かれる思いで、この日は一人帰路に着きました。
 過年のWUB世界大会や経営協四〇周年大会終了後にもこうしたスッタフ慰労と外部来賓の方々の参加する二次会の間で「スッタフ・裏方メンバーが頑張ったからこそ大会は無事終了したのに」との思いと方や「ご多忙にもかかわらず、出席頂いた方への御礼」と言う二つの思に悩みました。
 これはあたかも社員への配慮と顧客への感謝。内部重視か外部重視か、前衛と後衛、フロントとバックという組織活動に普遍的存在する問題。これは“内向きか外向きか”という価値観やキャラクタにも左右されます。その重心は組織の創業、立上げ期と成長、成熟期によっても変わって来ます。
 こうした時、「ここは大丈夫です。社長はお客様をよろしく!」と常にサポートして頂いた我社の元専務の対応を思い出します。要は組織、会社運営には専務、事務局長等のNO2にどういう人を得るか、その理解度と価値観に関わって来ます。
 その専務がある時「NO2ほど辛いものはありません。何か大事なものを捨てなければならないのです」と言った言葉が未だ時折思い出されます。えてして、他への配慮、気配りに欠ける自覚とその正当化論を行き来する自分の性癖に改めて気づいた瞬間でした。
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「沖縄で結婚披露宴に出席しました」

2009年12月14日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 先々週のナハマラソン出場に続き先週末、事業所社員結婚披露宴出席のため沖縄に行きました。
 ご存知の通り、最近の若い人の結婚式はごく内輪の身内・友人同士の簡略な形式が多く、仲人は言うに及ばず勤務先のTOPを招待するのも極めて少なくなっています。立場上、その方が楽な反面、一抹の寂しさも否定出来ません。今回は社長スケジュール繁忙もあり、会長就任初めて数年ぶりの主賓挨拶役となりました。
 今回の参席者は200名、本土と比べると大勢ですが、沖縄の披露宴としてはごく普通の規模でした。今年の新入社員を含め当社沖縄事業所メンバー25名全員が出席、勢いパーティは事業所社員の懇親会の様相も呈しました。
 席上綺麗なお嬢さんから挨拶され「どちらさん?」と尋ねたところ「私ですよ!」の返事。よく見ると当社社員。思わず「あっ!馬子にも衣装だね」と声を上げたら「会長!セクハラですよ」と言われました。
 拙書「おきなわ就活塾」でも報告しましたが、沖縄の結婚披露宴は本土のように両家親族が末席で出席者を招待する形式ではなく、出席者がご両親はじめご親族を祝福する形、従ってご両親は時に新郎新婦と雛壇に列する例も多く、今回もご両親、親族は雛壇に近い最前列におられました。親族、友人、近所地域の方々挙ってのお祝いという性格上、出席者は多ければ多いほど良いということになります。
 この日も、乾杯音頭挨拶前から出席者個々に早くも泡盛酌み交わし盛り上がり、久しぶりに形式にとらわれない“イチャリバチョウディー”(出会えば、兄弟親戚)沖縄スピリットを満喫しました。新垣君、おめでとう、お幸せに!招待有難う!
      
      (出席の沖縄事業所メンバー一同と式後の記念撮影!)
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「ナハマラソンと屋良文雄君」

2009年12月09日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 先週のナハマラソン出場の前日、市内病院で頚椎障害療養中の屋良文雄君を訪ねました。ジャズ演奏、中小経営と違った道ながら彼とは小・中・高・琉大(しかも共に中退)一緒の唯一の同期。しかも、共に10回以上出場したナハマラソン、何度か中間地点辺りで「おい!辰弥先に行くぞ!」と後ろから肩を叩かれ、追い抜かれました。
 一昨年の拙書「おきなわ就活塾」出版記念パーティで「屋良沖縄ジャズ協会長が本当にWelcomeオープニング演奏をなさるのですか」とホテル担当者が驚くのを見て、“文雄って、そんなに偉いのか”と自分の音楽音痴を思い知りました。
 今でこそ沖縄、いや全国を代表するジャズ演奏家の彼、中学時代はリレー選手でバレーボールのレギュラースポーツマンだった。私が本土大学受験勉強に汲々する琉大在学中、彼は学業そっちのけで在留米軍基地内でジャズ演奏、巨万のバイト料を稼いでいました。
 ジャズハウス「寓話」開店後はしばしば首里の自宅から店までジョギング通勤していました。治療中の今でも、時折病院から演奏に出かけているという。
 小学時代、音楽教室で一人一心にオルガンを弾いていた“この道一筋”の彼、ベットサイドを訪ねた私の顔を見るや“おう!辰弥、元気か!完走出来なくても挑戦する気合が大事だぞ!頑張れ!」と逆に励まされました。

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「25回ナハマラソンに出ました!」

2009年12月06日 | 「マラソン挑戦」
 昨年に続き12月6日、第25回ナハマラソンに出場しました。練習不足の上、左ひざと頚椎障害のため、長距離ジョギングはドクターストップのため、5キロ、あわよくば10キロ目標。それほどのリスクを侵しての出場の理由はスタートラインの高揚感とジョギング陶酔感。
 膝の異常を感じたら即停止と自分に言い聞かせつつ、5キロ、10キロ通過、このままなら昨年同様中間まで行けるかと思っていた矢先、「会長、調子に乗らないで下さいよ!膝後遺症出て来ますよ」の携帯電話に13キロ付近でリタイヤ。
 親会社CIJの中野会長は3時間後半のタイムで完走、会場から4時のフライトで帰京。私もホテルでシャワーを浴びて那覇空港直行しました。
 13キロとはいえ、沿道でOB社員、主催の地元新聞、テレビ役員から島尻国会議員までの数多い知己、顔見知りのエールと応援、“脚一本位なんのその”とまで思うナハマラソンならではの魅力と魔力。
 とは言え、余力を残しての13キロリタイヤ、何とも言えぬ欲求不満に襲われました。今回の出場者は3万人、内6時間の制限時間内2万人、70%の完走率。
 私はこれまで14回のナハマラソン出場で制限時間内完走は9回ですが、最近はゴールはするものの時間オーバーやハーフ、17キロ、今回の13キロリタイヤに終わっています。
“年寄りの冷や水“本来、5キロか10キロ位がいいのでしょう!主催、応援の皆様、今年も有り難う御座いました。
               
                     (リタイヤ13キロ付近で!)
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「三沢あけみ50周年で沖縄アッピール!」

2009年12月02日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 今月16日、帝国ホテルで開催された”奄美ナチカシヤ~”で有名な「島のブルース」歌手・三沢あけみ「芸能生活五十周年を祝う会」へ招待され参加しました。たまたまこの日、三沢さんは2009年度の文化庁長官からその芸能活動を表彰され、この祝賀会も兼ねる。
 そのためもあったのか、出席者は小林幸子、五月みどり、みのもんた等の芸能人含め400人強。テレビでしか見ないこうしたタレント連と極く間近のテーブル隣席は初めての体験でした。
 そもそも私が呼ばれた縁は当社子会社のOBが三沢後援会事務局に所属していること。三沢さんから信頼を得、何かと頼りにされている彼女、今回のデビュー50周年記念作「海人(ウミンチュ)恋歌」の発表に伴い、琉舞関係者を紹介してとの依頼を受け、私のところに相談に来ました。
 数多い知己琉舞先生の顔を浮かべ迷いましたが、当社の元社員がお世話になっている高校同期の康舞会家元・金城康子さんを紹介、さらに豊川麻美さん知人ルートから沖縄酒造組合を仲介、当日はNHKプロデューサーによる康舞会一門による琉球舞踊に加え、泡盛女王による泡盛歓待と会場はさながら沖縄アッピール!
 奄美・沖縄の橋渡し、同期の契り「美ら島沖縄大使」としての役割多少は果たしたかと悦に入った一夜でした。
               
           
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朝吼夕嘆

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