(奄美・加計呂麻島~左が旧・実久村、右が旧鎭西村)
沖縄の高校野球を何度も甲子園に出場させた様々毀誉褒貶の伝説の裁監督は65才で逝去しますが、生前会食した思い出があります。私より一つ若い彼は糸満生まれながらルーツは奄美と言ってました。そいえば琉大卒業後、那覇市松山で“夜の商工会議所”と呼ばれるクラブを経営、後にベンチャービジネスを立上げ、日経ビジネスウーマンイヤーズ賞を受賞した奥キヌ子さんも糸満生まれながらルーツは奄美とのこと!。こうした糸満と奄美はの縁はカツオ漁業の繋がりでは?
会社経営現役の頃、顧客接待でしばしば通う赤坂見附のスナックで見事なピアノ演奏歌唱の女性に会い、沖縄出身と聞き、え!と驚きました。高校卒業後、東京の音大に進学、バイトしているとのこと。モデルを思わすスラットした華麗な容姿はどう見ても沖縄出身( ´艸`)には見えなかったのですが、何と宮古島は伊良部・佐良浜出身とのことでした。彼女一族は宮古、沖縄と一定の距離を保ち、県人会等の集いには滅多に参加しないとのこと。今、横浜でピアノ弾き語りのスナックを経営しているようです。
実は仲間由紀恵や国仲涼子等沖縄出身の何人かのタレントのルーツが同じ伊良部・佐良浜で、それはかって遭難ドイツ船員が佐良浜に長期滞在したのが出自というのを聞き、調べたところこれは今から150年前の10人近いドイツ人船員の1月近い滞在史実がありますが、これは佐良間美人の由来としてはフィクッション伝説と思いました。でも、何故この島を祖先とする美人が多いのだろうか?
(伊良部・佐良浜がルーツと言われる代表タレント)
九州各県には概ね各県1紙、1銀ですが、沖縄には「沖縄タイムス」「琉球新報」の2紙に銀行も「琉銀」「沖銀」と2行があります。ラジオ、テレビも「RBC・QAB」「OTB」と事実上の2局です。
(琉銀本店~改装中) (沖銀本店)
(東京で会った今帰仁・北山出身のカーギ女性)
前回、“イトマンウランダ”(糸満オランダ)というフレーズを紹介しましたが、これとは別に“今帰仁・北山ナイチャー”と言うジョーク・フレーズも聞きました。これは今帰仁・北山にはナイチャー(内地=大和)風の容貌が多いという意味らしいのです。後に私は新宿・歌舞伎町で今帰仁・北山出身の何人かの女性に会い、私が幼少を過ごした大連で会った色白、背高い女性や垢抜けした北朝鮮女性色写のその容姿に魅せられました。まるで”秋田美人!東シナ海に面するこの今帰仁、北山港はその昔、済州島、朝鮮半島、清と交流があったのでは??これは根拠の無い私の妄想、今帰仁・北山の皆さん!ゴメンナサイ!
(東京で会った糸満女性)
奄美から沖縄に移住した父が糸満と奄美海産物取引があり、その縁で初めて糸満を訪ねた時、小柄色黒ながら目のくっきりした糸満の女性に会いそのカーギ(美貌)に打たれました。後に“イトマンウランダー”というフレーズを知りました。この“糸満オランダ―”の意味は“糸満は外人風”というのを知りました。外洋漁場盛んな糸満は海外との交流が盛んだったという意味か?後に東京で糸満出身の女性とお会いましたが、皆さん文字通りのチュラカーギ―でした( ´艸`)
那覇の松山で会った糸満出身のママから“小さい頃、旭橋、真玉橋は渡るな!と言われたと聞きました。禁断の旭橋、真玉橋渡り那覇に行けば二度と故郷・糸満に帰れない!”という意味で、これは那覇の辻や仲島で働く糸満の女性は、遂に故郷に帰りたくても帰れない悲しい伝えから作られたフレーズを知りました。
(糸満の漁業)
私が在校した奄美の古仁屋小学校に大城君や金城(カナシロ)君という同級生がいました。彼らは共に大島生まれでしたが、両親は沖縄出身の「クダカ」でした。古仁屋で「クダカ」というのは漁師のことで、古仁屋にいた沖縄出身者の殆どはクダカでした。後に沖縄に行き金城(カナシロ)は金城(キンジョウ)と呼び、さらに神の島“久高島”があることを知りました。奄美の漁業は沖縄の久高島や糸満出身の漁師から取得したのでは?
古仁屋小学校でも悪さやヤンチャを続けている男の子は“糸満に売られるよ!(糸満売り)”女性は“辻に売られるよ!”と冗談半分に言われていました。糸満に売られた子は海に放り投げられ、潜水漁業を鍛えられたと言います。
後に「松の下」「左馬」「那覇」等伝説の料亭が立ち並ぶ那覇市辻町を界隈し、琉球文化の華麗さに圧倒されました。
(古仁屋漁港)
(琉舞・諸鈍)
奄美から沖縄に来て双方のカルチャの違いを感ずる一方、融合や架け橋を感じました。それは沖縄で琉舞古典七踊の筆頭に掲げられる「諸鈍」舞踊を見ての確認でした。と言うのは、諸鈍とは私の故郷奄美・加計呂麻島にある集落で、ここに源平の戦いに敗れた平資盛が移住し、土地の人々との交流を広めるため教えた舞踊が“諸鈍シバヤ”として定着したという伝説です。以後、島の人に継承され「国指定重要無形民俗文化財」に指定され、住民の過疎化を圧して毎年催されています。何故この集団男踊りの“諸鈍シバヤ”と女一人踊りの琉舞“諸鈍”があるのか?
東シナ海と太平洋に面する”諸鈍長浜”と呼ばれる流麗なこの港には琉球王朝のマーラン船が度々寄港し、交流があったようで“諸鈍みやらび,カーギーのチュラサ”という琉球古歌もあるようです。この諸鈍村は沖縄と奄美を繋ぐ拠点だったのか?
私の高校同期の琉舞師匠に「奄美の加計呂麻に諸鈍という村があるよ!」と言ったら“えー?”と驚いていました。一方、諸鈍出身の同級生に“諸鈍という琉球古典舞踊があるよ!”と言いたら“へ!”と。いずれにしろ、沖縄と大和の架け橋の一面を我が故郷奄美を感じました。
(奄美・諸鈍シバヤ)
私が入学した奄美の古仁屋小学校1年の先生は祈(いのり),2年は林(はやし),3年は森(もり),4年は藤(ふじ)と皆一字の姓でした。奄美出身の歌手の元(はじめ)ちとせ、城(きづき)南海、中(あたり)孝介がいるのでこれらの名前は読めると思いますが、皆さん!奄美の姓「文」「英」読めるでしょうか?”ふみ,えい”ではなく(カザリ),(ハナブサ)と読みます。何故、これほどに奄美に一字姓があるのか?これは薩摩藩の強制でした。
沖縄に来て眞栄田、真栄城、玻名城、 山入端、 我如古、 饒平名、 喜屋武、 仲村渠等々の3苗字,中でも 大工廻(だくじゃく),健堅(きんきん),為又(びいまた),保栄茂(びん)等々の難読の地名を見て、奄美との違いの大きさには驚きました。これらの地名読み方の由来には諸説がありますが、中でも興味深いのは沖縄に来航した中国人の誤読説です。
薩摩藩の奄美への一苗字強制は韓支配の偽装では?沖縄のへの3字強制があったとしたら、それは沖縄を具とする対清貿易の柄だったのでは?もちろん、これは私の妄想です!