”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

 「琉大進学と退学の経緯」

2012年09月30日 | 「美ら島沖縄大使」便り

  昭和34年、私は琉球大学法制科に入学しました。この年同じ那覇高校3年4組クラスから5人、同期全体では50人以上が入学、当時の沖縄では首里高校と並んで那覇高が琉大の一大勢力でした。法制科の那覇高同期には後の協栄生命沖縄支社長の藤村君や山梨学院大教授の我部政男君がいました。(良く間違われる我部政明琉大教授は弟君)

 後に農学部長になられる奄美同郷出身で遠縁の泉教授から“法政科合格生の中で上の浪人3人を除けば現役では辰弥君が一番”という内報を受けた父がほろ酔い気分で帰宅した姿が忘れられません。

 因みに、鹿児島大農学部出身のこの泉先生のご尊父・泉有平さんは当時の琉球政府の比嘉秀平主席(今で言う知事)の下で副主席・兼立法院議長して廃墟で痛んだ県内の緑地推進等を進めていましたが、1953年の奄美の日本復帰と同時に同じ奄美出身の池畑初代琉球銀行総裁、宝村復興金融公庫総裁、屋田電電公社総裁の共に辞めさせられます。いわば日本復帰に伴う奄美出身者の“公職追放”でした。この年は沖縄県学生の本土留学国費制度スタートの年でしたが、この第1期の50名近い合格者の3分の一は奄美出身学生でしたが、これも全員取り消されたと言うことです。

 奄美大島・日本復帰後の在沖奄美出身の一人として、前途へのこうした閉塞感もあり、私は1年で琉大を中退することになります。(以下~)  

 

           

              (琉大入学本部前で)

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「沖縄平和祈念堂と対馬記念館」

2012年09月28日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                                   

 「沖縄平和祈念堂と対馬記念館」は摩文仁・那覇とその所在地は異なるものの共に沖縄に於ける平和学習運動のメッカ、シンボル。先般の沖縄出張時、この両館運営を担う比嘉正詔所長と高良政勝館長との一宴。

 祈念堂母体の「沖縄協会」評議員拝命と「対馬丸後援会会員」でもあり、先般、些少ながら拙書「おきなわ就活塾」(新宿書房)印税の一部の寄付させて頂いた縁。

 精力的なイベント企画、運動を担われる比嘉所長と沖縄県歯科医師会副会長を歴任、多忙な診療日々の中、対馬丸遺族代表としての運営活動の高良君。昨年わが高校同期として初の旭日双光章の栄誉を得られました。とは言え、余人代え難い高良館長後の運営維持が気掛かりです。“平和ボケ”当方として口幅ったいながら、“沖縄平和学習、反戦”という共通の目的を持つ両館、国と民間遺族会管轄という管轄行政感覚を越えたホールディング管理でその運営と財政基盤の一体化は図れないのか。

 来る11月には対馬丸事件を題材にした組踊「海鳴りの彼方~対馬丸の子ら」(大城立裕作、幸喜良秀演出)が那覇市の琉球新報ホールで上演される。

 両館運営を担う御両人、同じ思いと悩みを担いつつ、個人的レベルで交流、交感されていることを知りました。こうした課題と悩みを持たれるお二人への慰労と思いましたが古希過ぎのオジー3人ではいかにも花がなく、華麗未だ残る?知人の翁長洋子筝演奏師匠と記念館受付ボランティア活動・高校先輩をお招きした首里の一宴一夕でした(^-^*)

        

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「沖縄女性・高校後輩パワーには降参!」

2012年09月26日 | 「千客万来」

                     

  静岡県サイズの小国ながら世界有数の富裕層を誇る中東石油王国、日本支社のトップ秘書を勤める高校後輩が神楽坂オフイスに来訪。

 頻繁にハワイ、沖縄、東京行き来するお母さんとのセレブな二人暮らし!那覇市に高層マンションを購入し、遠くない将来の沖縄Uターン老後に備える沖縄女性では珍しくない海外・ハワイ留学経験を活かした英語バリバリのキャリアガール!

 五十路近くにも拘らず、その変わらぬ若さと旺盛な生活力には降参!

 

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「年商300億31歳の金城社長に感嘆!」

2012年09月23日 | 「美ら島沖縄大使」便り

         

 霞ヶ関ビル・東海クラブでの㈱クリエイト工房・10周年祝賀パーティ出席翌日の9月22日、神保町の学士会館で開催された金城拓真津梁貿易㈱社長の特別記念祝賀会に出席しました。

 これは金城社長が内閣国家戦略担当大臣から「世界で活躍し日本を発信する日本人」感謝状受賞の祝賀会。

 若干31歳ながらアフリカを拠点に中古車輸出を中核に41社を経営、年商300億を達成している金城社長は北谷(ちゃたん)出身。普天間高校から韓国へ留学。その自伝「プータロ、アフリカで300億円稼ぐ」はamazon自伝ベストセラーランキング一位。

 私は沖縄知人の紹介で数ヶ月前に神楽坂でお会いしましたが、創業30年60過ぎでわずか20億弱売上達成の小生から見て、半信半疑の成功談。正直言って、今もってその感、拭いされませんが、この日の以前と少しも変わらない偉ぶらない謙虚な対応。若手経産省役人、大学教授、女性フリーアナウンサー、マダガスカル在住女性コンサルと300人近い多士済々な出席者を前にした見事な挨拶を聞きき“あの若さで!”という自分自身の常識的な判断・価値観が揺さぶられ、茫然自失の瞬間でした。

 1万円の会費ながら大勢集まった2~30代大半の出席者、通常の沖縄関係とは異相の集いに“脱日本、沖縄”の新世代の波動のカルチャーショック!

 勇を起しての骨折後遺症の足を引き吊りつつの二日連続の祝賀パーティ出席、 改めて“場所には行け、人には会え”のわれと我が身への督励信条痛感の帰路でした。金城さん、ご招待、改めて有り難う御座いました。益々のご清栄を!         

       

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「平良社長、創業10周年、おめでとう!」

2012年09月23日 | 「美ら島沖縄大使」便り

              

 9月21日、霞ヶ関ビルの東海クラブで開催された関東沖縄IT協議会長・平良忠信社長の㈱クリエイト工房・10周年祝賀パーティに出席しました。

この日の出席者は社員を含め、IT協メンバー等50名。平良社長が大学卒業後最初に就職した会社の上司や同僚の祝辞を聞き、平良社長の人付き合い、人脈保持の異才を改めて感じました。

 創業35年目を迎えるわれと我が身を振り返り、25年前のわが社㈱日本アドバンストシステム10周年パーティ開催時の高揚感を懐かしく思い出しました。

 この日、骨折自宅治療より40日経過、ギブスからサポーターへ替え、初のスーツ姿の外出となり、周囲の皆さんから“足は大丈夫ですか”と多くの見舞いを頂き有り難う御座いました。

 先般の5周年パーティからあっという間の10年、この間、社員の離脱、リーマンショックによる売上げダウン、関連会社の破綻と数々の困難を克服、衰えぬ平良社長の経営持続パワーに感服!改めておめでとう“創業10年は偉大なり、20年は畏るべし、30年は歴史的!”。益々のご清栄を!

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「骨折から1ヶ月」

2012年09月16日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                 

 左脚骨折から1ヶ月、ようやく亀裂が繋がり、ギブスからサポーターに変換しました。後暫くはギブス固定で鬱血、腫上がった足首を医師の指導で上下に動かし、床に置かれたタオルを足指で抓む等のリハビリ運動。この後サポーターを代え、歩行訓練になるとのこと。

 骨折治療は手術や投薬等の外的措置は無く、患部を固定による自己回復力のサポート。この1ヶ月、毎日10分間、患部への血行促進のマイクロ波射投だけの通院。この間、1週間毎にレントゲン撮影で経過観察。これまで初診から3回の撮影で回復状態を確認しました。

骨折治療は通常は数ヶ月から半年前後掛で、1ヶ月通院治療は軽症とのことでした。加齢と共に足首を動かす前脛骨筋(弁慶の泣き所)が衰え、足首のバネが衰え、躓いたり縺れたりするとのこと。毎週フィットネスセンターでマシントレしている私ですが、中高年はリフォーム住宅でよく骨折事故を起すとのこと。それは以前の家宅に慣れた体が新住宅に的確に適応しないためとのことでした。

 リフォームは夫婦の意見齟齬だけでなく、体の不適応齟齬もあることを痛感しました。

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「私が入学した頃の琉球大学」

2012年09月15日 | 「美ら島沖縄大使」便り

              

         (当時の琉大校舎=現在の首里城内)

 昭和34年、那覇高を卒業した私はその年、琉大法政科に進学しました。同期専攻クラスは50人弱。私の記憶に間違いなければその3分の一は浪人で彼らの大半は、翌年当時の琉球政府にあった本土大学への留学(国費・自費生)受験生。多少語弊があるかも知れませんが、当時の琉大はそうした国費・自費への受験校の色彩があり、現に授業には出ず、学内の志喜屋図書館で翌年への受験勉強に励む学生が少なくありませんでした。現に私などは翌年の早大受験を目指し、問題集に取組んでいました。

 琉大創設を推進した在沖米国民政府の意向を受け、法制科新入生の私達にとっても英会話は必修コースで、この担任教授として初めて翁長俊郎先生にお会いしました。

 当時の琉大英語授業はクラス学生各人机上にあの時代としては贅沢なテープレコードを設置、日常英語フレーズ音声を繰り返し、耳から覚えさせるユニークな“ミシガン方式”英会話レッスン。これは琉球大設立を促進した当時の在琉米軍司令部のリレーションからミシガン大学に協力を要請した結果という。

 こうした独特の英語レッスンの成果もあり、多くの琉大卒が特別枠の米国留学の恩恵を受け、帰沖後“金門クラブ”(Golden Bridge Club)を形成、当時の琉球エリートの聖地“ハーバービュウ・ホテル”に集い、政財界の親米エリート集団を形成する。

 

 

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「島尻あい子先生、有り難う御座いました!

2012年09月14日 | 「美ら島沖縄大使」便り

        

 先日、宮城県生まれの知人の依頼案件、紹介も有り、同県出身の島尻あい子先生を参議員会館にお訪ねしました。

 久方振りの議員会館、以前に比べ館内移動も大変なほど、廊下スペースも倍近く拡張壮大な館内歩きつつ、大学卒業後琉球新報記者として所属した内閣記者クラブ時代を懐かしく思い出しました。

 毎週、沖縄~東京往復しつつ自民党女性局長として全国行脚の多忙な島尻さん、貴重なお時間割いて、快く面談いただき感謝です。有り難う御座いました。

 

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「琉大創設功労の翁長俊郎・斉藤陽子さん御尊父」(その1)

2012年09月13日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                                

  (建設中の首里城跡の琉大・志喜屋図書館前で友人と~1959年3月入学前)

  斉藤陽子さんのご尊父・翁長俊郎先生は東京外大から北大を経て卒業後、奨学金免除制度のある朝鮮京城ヘ行かれ、そこで東北出身の奈良女子高等師範卒の君代さんと巡り合い、結婚され、斉藤陽子さん他3人のお子さんが誕生します。 戦後、沖縄に帰省された翁長先生はその英語力を買われ、在琉米国民政府の推進により具志川に設立した沖縄外国語学校の校長に就任され、一期性には後の大田昌秀沖縄県知事や比嘉幹郎副知事、東江琉大学長等錚々たるの教え子を育てられます。

 琉球大学の母体はこの外語学校と隣接する教員養成用の沖縄文教学校と云われていますが、翁長先生は志喜屋初代学長にその英語力を代われ、アメリカ本国ペンタゴンに同行、ロス、シカゴ、ニューヨークなど沖縄県人会を訪ね、寄付協力要請する一方、首里城跡地の用地決定、本館、図書館等々の施設建設の予算獲得と琉大設立に交渉、奔走されます。その一方では“植民地大学”反対と米軍の関与に反対する反米学生の間で大変な心労が有ったようです。

 そんな翁長先生の苦労を露知らず、琉大入学早々の私はこともあろうか、地元紙に大学批判の投書をし、翁長先生に問われます。その結果は以下~

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「琉大・家政科の祖・翁長君代(斉藤陽子さん御母堂)」

2012年09月11日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                     

         (子息ダニエルと踊る至福の陽子さん)

 私が奄美から沖縄に渡った昭和1953年代半ば、沖縄ではテレビは言うに及ばずレコード等もない時代、駐留米軍先導による有線「親子ラジオ」の普及によって日々の生活が随分豊かになった記憶があります。

 この「親子ラジオ」から流れる垢抜けした“本土訛り”の翁長君江教授の料理番組を熱心に聴く亡母の思い出があります。母は翁長先生の大フアンで、度々講演会にも出席していたようです。

 翁長さんは初代「国際ソロプチミスト沖縄会長に就任するなど、当時“家事近代啓蒙家”として“一世風靡”とも言える著名人。戦後、国民指導員として
米国視察、ガリオア資金を受け、ミシガン大学に留学されます。大学には後の川平朝清静東京沖縄県人会長も在学されていたとのことです。因みに川平会長はそこで奥様のワンダリンさんと巡り会われたようです。私はこの君代教授のご主人が同じ琉大教授の翁長俊郎教授ということも琉大入学後に知りました。

 その著著「琉球料理と沖縄の食生活」は今もって稀覯本として尊重されています。後に地元「琉球新報紙」に長文の自叙伝を連載されますが、後にひょんな縁でこの著名な御両親お嬢さん、斉藤陽子さんと知り合った時はビックリしました。

 両親共に大学教授、夫々の著書が今もって古典として人口に膾炙される等凌駕し難い高名な御両親を持つ陽子さんは娘としては誇らしさと同時に「イバサヌアッカラン」(狭くて歩けない)と言い知れぬプレッシャが脱琉、脱日動機があったのでは!

 しかし、現在の陽子さんを見ると、そのプレッシャこそ飛躍、栄達へのスプリングボードになり、結果的に我々同世代の4倍を越えるような人生を踏破したのではと思わざるを得ません。

           

        (翁長君代さん遺影~沖縄ソロプニスト協会HPから)

 



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“怒るな!風邪引くな!転ぶな!” ~久々のクラス会で学ぶ!

2012年09月09日 | 「病牀六尺」

         

 骨折自宅療養中ながら旧友と会いたく数年振りの大学クラス会に参加しました。会場は渋谷・東急プラザ、イタリアンレストラン。

 この日の出席者12名、内女性5名。参加メンバー殆どがリタイヤ組。出席者の大半が教職と出版関係職OBと言うのは流石に一文西洋史専攻クラス会の特色か。参加者全員の近況報告の殆どは病歴入院療養体験談。その中に私同様、骨折罹病者が4人もおり、参考激励になりました。

 2次会は流石に、遠路ギブスギ脚を引き摺りつつ、参加費を上回る送迎車負担経費事情もあり、参加は断念したものの、改めて“人には会え、場所には行け!の信条確認の帰路車中でした。この日、骨折入院2度経験の毎日新聞記者出身級友が言った以下 “老いの三則“肝に銘ずる。

  曰く、“怒るな!風邪引くな!転ぶな!”

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「燦然!偉業、斉藤陽子さん!」(その二)

2012年09月07日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                 

  不況にものともせず継続のセラミック供給の御主人の会社United States Ceramic Supply, Coを経理総務担当として共に支えつつ、カリフォルニヤ農科大学で多くの来日農業留学生を育て、帰国後の彼ら教え子とのネットワークを構築活用、産地直送のEコマース efarm.jp 社を立ち上げた旺盛な事業力。

 カリフォルニアWalnutでハリウッド・ビバリーヒルズと見紛う広壮邸宅には複数のバストイレ付ゲストルームがあり、数年前私はこの住宅に数日間、お世話になり、その際、沢山の来米・日本人宿泊名簿を見せられ驚きました。

 それでいて“イチヤレバチョウデー(出会えば兄弟)”“チムグクル(肝心)”キーワードを掲げ“ヤーグァーチクイ(小屋作り)”とやたらに群れる県人・郷友集いには一定の距離を置く冷厳・クールなスタンス。とは言え古希を越し加重体躯ものともせず、年に何度も日米、沖縄を往復、講演、執筆のエネルギーとパワー。10年前には、琉球新報社の「日曜評論」コラム連載執筆で隔週ごとに競い合った奇縁もあります。

 御自身の自己実現のみならず、お子さん達揃っての地位蓄財と才色兼備のお嫁さん。一族挙っての名実揃う夢のような栄達。自ら選択、脱琉渡米、果敢なチャレンジ、大願成就、至福の時を迎え、さながら、絵に描いたような現代版“越境する琉球女” 偉大、燦然たる陽子さん。

 以下共に琉球大学創設時の教授御両親、故翁長敏郎、君江先生に関する私の思い出御報告します。  

                       

        (Walnut斎藤広壮邸宅。手前にフェンス・GATE)

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「燦然!偉業、斉藤陽子さん!」(その一)

2012年09月05日 | 「美ら島沖縄大使」便り

               

                (新婚御子息ご夫妻と)

 六本木での豪華・絢爛たる昨年の長子・ウィリアムさんに続いて先月、青山で行われた次男・ダニエル君のユニークな結婚式に参加し、改めて尊母・斉藤陽子さんの燦然たる人生に思いを馳せました。

 お茶大で博士号取得、東大大学院研究に米国留学から大手広告会社で国境を越えたCM企画、製作担当それぞれ華麗なキャリアを誇る学究・ワーキング義娘を得て、麻生の高級マンションに居を構える御子息夫妻。まさに、良妻賢母ならぬ“強妻偉母“の陽子さん。同世代のこの栄達には憧憬と共に誇り。

 復帰前の駐留米国支配下の沖縄から“脱亜入欧”ならぬ“脱沖入日”の私に対し“脱日入米”の陽子さん!首里・那覇と高校は違うものの同じ世代。

 何度も書きましたが尊父翁長俊郎氏は朝鮮総督府時代、東北出身の尊母君代さんと知り合い結婚、帰沖、生まれた娘が陽子さん。

 ご夫妻は後に共に琉大教授、尊父は私の琉大恩師、尊母は初代琉大家政学部長。創設時の琉大で“琉球料理”研究大家として一世を風靡した君代教授、娘の陽子さんは何時何処に行っても“君代さんの娘”と称呼。その両親の定冠令名を脱するように本土獣医大に進学、さらに渡米。サンフランシスコ行きの船舶中で出会った会津出身偉丈夫。出会った人が一様に“え!これ陽子さんの御主人”と驚く好男子をゲット。成した子がウィリアム・ダニエルの天才兄弟子息。

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「IT経営者OB会、発足」

2012年09月04日 | 「終活レポート」

              

 首都圏独立系IT企業の交流組織ITA、発足以来すでに20年。
発足時の主要メンバーのTOP 4人が2年前からOB会を形成、所属メンバーの頭文字からSHOK会と名付け、3ヶ月に1度の割りで懇親会をもっていましたが、この度、リタイヤOBが一機に10名に倍増、SHOK会を発展的解消、新たに 会を形成しました。
 先日、神楽坂の弊社ビル正面向かいの老舗・焼き鳥店“鳥半”でその発会集いを持ちました。メンバーの平均年齢は当然のことながら70歳。話題は互いの創業、発足から“石油、リーマンショック乗り切り”企業継続、経営承継とさながら、日本のIT企業の歴史談、交流となりました.
 SPとは ①シニア プレジデント
          ②スペシャル パートナー
          ③SKB パートナー
 上記3つを併せ持つITA卒業生

 今週金曜の例会、骨折のため初の欠席となりました。皆さん、次回は沖縄で例会を!

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OB社員来訪、感慨感謝!

2012年09月01日 | 「千客万来」

                  

 骨折欠勤する前に、OB社員が在住地銘菓「草加煎餅」持参で我が“終の棲家”ならぬ”神楽坂オフイス”に訪ねて来られた!

 ㈱日本アドバンスシステム創業6年目の昭和59年採用、11年在社の沖縄出身のOB女性社員。退社17年後の今日まで時折「元社員のNです!」とBlogにコメント頂く。創業30余年、古希(近来ザラなり)迎えた今日この頃、度々のOB社員来訪には感慨感謝です!Nさん、ありがとう!

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朝吼夕嘆

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