昭和34年、私は琉球大学法制科に入学しました。この年同じ那覇高校3年4組クラスから5人、同期全体では50人以上が入学、当時の沖縄では首里高校と並んで那覇高が琉大の一大勢力でした。法制科の那覇高同期には後の協栄生命沖縄支社長の藤村君や山梨学院大教授の我部政男君がいました。(良く間違われる我部政明琉大教授は弟君)
後に農学部長になられる奄美同郷出身で遠縁の泉教授から“法政科合格生の中で上の浪人3人を除けば現役では辰弥君が一番”という内報を受けた父がほろ酔い気分で帰宅した姿が忘れられません。
因みに、鹿児島大農学部出身のこの泉先生のご尊父・泉有平さんは当時の琉球政府の比嘉秀平主席(今で言う知事)の下で副主席・兼立法院議長して廃墟で痛んだ県内の緑地推進等を進めていましたが、1953年の奄美の日本復帰と同時に同じ奄美出身の池畑初代琉球銀行総裁、宝村復興金融公庫総裁、屋田電電公社総裁の共に辞めさせられます。いわば日本復帰に伴う奄美出身者の“公職追放”でした。この年は沖縄県学生の本土留学国費制度スタートの年でしたが、この第1期の50名近い合格者の3分の一は奄美出身学生でしたが、これも全員取り消されたと言うことです。
奄美大島・日本復帰後の在沖奄美出身の一人として、前途へのこうした閉塞感もあり、私は1年で琉大を中退することになります。(以下~)
(琉大入学本部前で)