”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「マラソンと長寿」

2007年05月31日 | 「マラソン挑戦」
 マラソン・ランナーの長寿は聞いたことが無い。42,19のフルマラソンは時に死ニニイク”と揶揄されるが、本当に体にいいのか?現に私はマラソンとは言わないジョギングを初めて以来ここ20年の間に大腸腫瘍、憩室炎、頚腕症候群、左手麻痺と罹病している。
“だから言わんことではない。年甲斐もなくジョギングなんて粋がっているから、その報い”という声が聞こえて来そうだが、特に頚椎障害はジョギングの後遺症か、正直その因果関係は分からない。しかし、私はそう後悔していない。
「長生きするためにジョギングをしているのではない」とまでは言わないが、人のとの比較ではなく、元来腺病体質の私はジョギングをしていなかったら今以上に疾病がちになったと思う。他人との比較ではなく、あくまでジョギングする自分としなかった場合の相対比較。
 確信をもっていえる事はランニングは心肺・脚力機能の健全化には有効で、現実に私は中高年が患いがちな血圧、コレストロール、血糖値、体重等は常に正常値を保っている。しかし、胃腸等の消化器系や腫瘍対処方としては必ずしも有効とはいえない。

 いざとなったら自分自身そう出来るかどうかは自信はないが、”ひたすら生き長いたいという思想は卑しい“という三島由紀夫美学に共感を覚え、介護を受けながら長生するより“生きている限り出来るだけ健康で死はコロッと逝きたい”と思っている。
 ところが養護センターを営む高校同期の医師から“そんな格好いいことは健康なときにうそぶくこと!倒れてボケれば糞尿に塗れてのたうつこと。それが生きるということ!”と言われた。
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「全体会」(月例社員懇親会)

2007年05月29日 | 「美ら島沖縄大使」便り
(Monday Morning Message)
 当社では創業以来毎月最後の金曜日、業務終了後「全大会」という月例社員懇親会を継続開催している。これは本社勤務者と社外顧客先で作業している社員相互の交流会で、幹部社員のスピーチ以外にそれぞれのプロジェクト状況の発表会を行う。超過勤務手当等は支給されないが、その代わりビールや寿司等による懇親パーティ。主催は部門の持ち回りで、各自工夫を凝らす。これは本社以外、各事業所でも等しく実施されており、いわば当社のカルチャーの一つです。
 先週金曜日は目下研修中の当社新人、並びに関東沖縄IT協議会員各社の新人5名も参加して、その研修状況発表で盛り上がった。
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「意外!ハーフ・マラソン完走!」

2007年05月20日 | 「マラソン挑戦」
 去った連休に3年ぶりにハーフ・マラソンに挑戦、何とか完走した。と言ってもタイムは制限時間15分前の2時間45分と自分のワースト記録に近い。正直、週末のマシン・トレ以外碌な練習もしていないので途中リタイアも予想、まさか完走出来るとは思わなかった。
 レースは“春日部大凧ハーフ・マラソン”。一昨年までは17回続いた“庄和大凧マラソン“。市町村合併で”春日部大凧“になった。

 薫風薫る中、時折舞い上がるグライダーを見上げつつ江戸川堤防を走る今回のルートは私の好きなコースで、これまで過去12回出場している。ベストタイムは平成6年の第6回大会の1時間58分、時に54歳。以後タイムは年々遅くなり、一昨年は遂に頚腕症候群でドクターストップ。今回、左手麻痺障害は進んでいるものの頚腕疼痛が取れたので、不安ながら挑戦した。10キロ地点でリタイヤしてもいいとの思いで出場したら、10キロ地点でも限界感がない。ままよとゴールまで走った。流石に疲労困憊したがゴール後、何とも言えない達成・爽快感。あとは襲って来るかもしれない後遺頚腕症を見守る。
 実はこれまで縷々過去のマラソン歴を紐解いて、述べて来たのも久々のハーフ完走に高揚した結果でした。

      
 
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「社長のマラソン」

2007年05月18日 | 「マラソン挑戦」
 すでに報告したようにこれまで私は毎年12月第一日曜に開催されるナハマラソンに13回挑戦。その度、月曜朝礼で結果を社社員に“したり顔”で報告していた。さぞ、社員は心中“社長は凄い”と思っているだろうと思っていたがある宴席で、若手の社員が“社長がマラソン完走したって、それは個人的な趣味!我々に何の関係があるか”と聞こえがしに言うのを聞いた。
 私は内心“この野郎!”と“いいか、社長がマラソン走るというのは健康ということ!社長の健康は社員にとって結局、良いことなんだぞ”と言ったら、件の社員“でも、社長その那覇出張、会社の経費で行っているんでしょう!”という。
これ又“かっ”としたが、若手を相手にこんなことで反応していてはみっとともないと思い直し、翌日総務に出張旅費明細を精査させたところ“社長、ナハマラソンの12月第一日曜前後の旅費支出エビデンス無いですよ”との報告。
“そら見ろ!私の思ったとおり自腹で行ったぞ”と件の社員の発言をとっちめようと思ったが、これまた大人気ないと放っておいた。

 甚だ気分穏やかでは無かったが“まあ、そう思う社員もいるということか”。
力で押さえつけても“どうせ酒席でうそぶくだろう”し、中には“それはちょっと言い過ぎだよ”と咎める社員も中には居るかもしれないと期待し、我慢した。しかし、まあ“マラソンなんかする暇があったら我々のボーナスをもっと上げることも考えて”という思いも正直、社員にはあるだろうと思うことにした。

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那覇マラソン完走記④(この項最終)

2007年05月17日 | 「マラソン挑戦」
 結局私はこの’93年・第9回の初完走以来2000年17回まで、連続8回完走を果たすことになる。
 この間、社員の事故死、母の逝去、私自身の腫瘍摘出入院等人生の紆余曲折、週末の北浦和の社会保健センターのトレーニングマシンで、出勤前の早朝大宮の氷川神社を、あるは暮れなずむ埼京線沿いを時に涙しながら走った。

 連続出場が途切れたのは第16回2001年大会。その大きな理由はこの年、東京で行われたWUB世界大会の会長を務め時間的にも精神的にも余裕が無かったこと。その2年後の第20回大会はハーフまで、翌21回は那覇高後輩の池間嬢達と出場すれでも制限時間30分近くオーバーする6時間半でゴールしたが、その後は頚腕症候群から左手麻痺、大腸憩室炎等で入院、ドクタースットップから走れず、一種のジョギング・ロスト喪失感に襲われ、週末のマシン・ジョグで誤魔化して来た。
 結局、私は50歳以降にナハマラソン11回、沖縄マラソン1回、東京荒川2回と合計14回のフルマラソンに出場、内13回完走したことになる。ハーフと10キロ出場は50回近いと思う。
 昨年暮れの大腸憩室炎症入院時には”もうは走れないか”と一種絶望感に襲われたが、実は今月の連休ハーフに挑み、左手麻痺を庇いつつ、3時間の制限時間内で完走、自分でも奇跡かと思ったほどの達成感に襲われた。実に3年ぶりだった。この詳細紹介は次回以降に。


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故親泊那覇市長から祝福受ける! 

2007年05月15日 | 「マラソン挑戦」
 ’93年12月、私はフルマラソン初完走?
ゴール地点の貴賓席には主催者の一人である故親泊市長がいらっした。市長が上京の節は当時島袋絹子さん経営の赤坂のスナック「那覇」で良くご一緒した縁から”よー!重田さん、おめでとう!”握手、祝福されたスナップも忘れえぬ思い出。
 
 ゴールのトラックに入った時は小石につまずくだけで倒れそうなほど疲労困憊していた。ゴールインのときには下半身がクラゲになったような感じで思わず座り込みたくなったのを必死で耐えた。ゴールサポートの高校生がそんな私を見兼ねたか「大丈夫ですか」と心配そうに私の顔をのぞき込んだ。この時は涙が出そうになった。「本当にありがとう」という気持ちだったが、その時は疲れでこのお礼の言葉が出なかった。それをいまでも後悔している。那覇マラソンは結局このような多くの善意の人々の奉仕と支えで成り立っているのだと思う。私の生涯初のフルマラソン完走は終わった。感激で涙が出るかと予想したが、実際はヤレヤレという気持ちだった。
                     
 先着した高橋君は私がゴールしても六時間ぎりぎりと予想して三時頃ゴール地点に迎えに行ったが、私の姿が見えず、「社長今年も駄目だったか」と思ったらしい。制限時間30分まえの私の完走は予想外だったらしい。知らないというのは恐ろしい。昨年のスタート前は完走の気分で42キロを多少たかをくっていた。今回は冒頭にも書いたが、むしろ不安だった。昨年の途中リタイヤの挫折で怖さを知り謙虚になったのだ。      
 昨年の強制リタイヤは時の経過と共に私に悔しさと情け無さをもたらした。同時に32キロを目前に足がどうにも動かなかった苦しさは忘れられない。      
 
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那覇マラソン完走記 ② 

2007年05月14日 | 「マラソン挑戦」
’93年12月6日、私にとって2回目のフルマラソン挑戦。
スタートの号砲は鳴った。中間の22キロ地点までマーア快調。去年はここからドッと歩き出したが今回は結局26キロちかくまで走り続ける。去年時間切れで悔し涙にくれた32キロ兼城交差点を30分前に通過したときは「ヤッタ! 」と思った。ゴール時よりこのときの方が感慨が強い。ゴールまでの10キロは地獄だった。萎える自分の体と気力を叱咤し、前方に見える信号を目標に走り、そに看板を次の目標に走り、また歩きかつ必死に走った。5時間29分、13122人の完走者中8630番。
 32キロ地点のアナウンスで「ただいまの通過者一万何人」と言っていたから私はラスト10キロで1500人ほどを追い越したことになる。このラスト10キロの頑張りはひとえに年頭の完走宣言の結果である。そう、社員への社長としての面子がそうさせたと思う。    
                         
 今回は昨年と違いわずかに40キロ地点の自衛隊ベース門前で那覇高同期の福地さんに「重田さん!」と声を掛けられた以外沿道に応援する知人に誰も声を掛けられない孤独のランナーだった。            
 この鏡原の自衛隊ゲート前から空港に向かう高架道路沿いまでは最も苦しかった。ほとんど走れる余力がないのを気力だけで足を前に運んだ。奥武山公園に入ってからゴールまでの円周走コース、まだかまだかと果てしなく遠かった。コース沿いに応援の人が鈴なりに連なっているので歩きたくても歩けない。誰が見ているか判らないからだ。実際には私の知人は誰も見ていなかったのだが。  
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那覇マラソン完走記①

2007年05月13日 | 「マラソン挑戦」
 93年12月5 日午前9時前、那覇市奥武山競技場で私は不安な気持でスタートの合図待った。完走する自信はなかった。昨年の経験から30キロ過ぎに襲って来る予測出来ない肉体の限界と異変を恐れた。御存知のとうり私は今年の年頭挨拶で「フルマラソン完走」を宣言した。
 これは私にこの一年ずうとプレッシャーを与え続け、密かに悔いた。プレッシャーから逃れるように休日とウイークデイほぼ一日ひたすらジョグをこなし、一日一回八階まで階段を登った。10キロ、ハーフの関東地域の大会にはこの一年毎月出た。そのほとんどはビリに近い順位で一向にフルマラソン完走の自信は生まれなかった。
雨の日も風の日も、多少風邪を引き体調が悪くても、得意の時も失意の時もひたすら自分にノルマを課し、時は11時過ぎの深夜まで走った。それはあたかも自分の体を苛んでいるようで家人もホトホト呆れていた。すべては年頭宣言のなせるわざだった。
 大会前日の土曜に那覇入りした高橋君と私の二人は、私の知己である沖縄県東京事務所の与義課長の運転で翌日のコースを下見した。寒風に暮れなずむ35キロ過ぎの兼城から小緑の渋滞する登り坂を見たとき、私は「これはとても無理だ」と感じた。高橋君から「社長! 今年は随分弱気ですね」と笑われたぐらいだ。       
 
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沖縄タイムス「オフイスの窓から」②

2007年05月12日 | 「マラソン挑戦」
 社内の月曜朝礼の後、マラソンに挑戦した経験をもつ社員が「社長、あんなこと言いて大丈夫ですか。フルマラソンは大変ですよ」と心配顔に話し掛けてきた。私は心中密かに後悔した。それでもは宣言した手前、帰宅後は自宅近くの暮れなずむ中山道を、ウィークエンドは大宮氷川神社の境内を走った。このころの練習量は毎月高々100キロ前後。

 こうして私は1993年12月、奥武山のスタートラインに不安な気持ちで並んだ。果たせるかな三〇キロを過ぎからゴールまでこの世のものと思えない苦しみを味わった。タイムは5時間26分。ゴールした時はやれやれほっとしたという気分だったが、次第にアヒルの自分が白鳥になったような気になった。私の初マラソン挑戦は自分のメンツと見栄のためのようなものだから動機はきわめて不純だった。

 その後、昨年まで四年連続で制限時間をクリヤーしているが、30キロ以降どうしても歩いているから厳密な意味で「完走」とは言えない。毎年、名嘉地の坂を走り抜き、なんとか五時間を切るのが目標だが未だ果たしていない。サブスリーランナーの社員にはいつも「社長、週末だけの練習では無理ですよ。夜の接待を減らさなければ駄目ですよ」と笑われている。それでも五時間以内を悲願に今年も南部路に挑む。  沖縄タイムス「オフイスの窓から」98年12月2日 



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沖縄タイムス「オフイスの窓から」①

2007年05月11日 | 「マラソン挑戦」
"93年12月、ついに私は生涯初めてのフルマラソン完走を果たす。丁度その年、主催者の沖縄タイムスから連載エッセイ「オフイスの窓」の執筆を依頼され、その際に初マラソン記を書いた。以下2回に亘ってご紹介する。

 ”毎年十二月第一日曜日は恒例の那覇マラソンの日だ。
五〇を前にして私は一時間ほどの朝の通勤電車で立っているのがつらくなり、足の衰えを感じ始めていた。「これはいかん」と週末家の近くを走り始めたのがそもそもジョギングの始まりだった。私の小学から大学までの同期に「千年も生きたい」などと言いながら夜毎、酒を飲みつつピアノを弾くことを生業にしている男がいる。
 この男、初回から那覇マラソンに出場している。ライブハウス「寓話」のオーナー屋良文雄である。ヒイジャー顔の彼が前夜遅くまで酒を飲んで出場することを知った時には強い驚きと羨ましさを感じた。そんな私が本気でフルマラソンいに挑戦する気になったのは九二年に襲って来たバブル崩壊不況だ。それまで一〇年以上右肩上がりの一本調子で成長してきた我社の業績が一転下がり始め、苦しい縮小バランス経営を強いられた。九三年、私は全社員向けの年頭挨拶でマラソンの怖さも知らず「不況を乗切る心身鍛練のため年末の那覇マラソンを完走する」とぶち上げた。これはいつもの私の悪い癖で多分に弾みで言ったことだった。

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汗と涙の初マラソン挑戦記⑦(最終項)

2007年05月11日 | 「マラソン挑戦」
'92年12月6日1時30分、もう駄目だと思ったら前方に32キロの標識が見えた。最後の死力を尽くして頑張る。しかし南無さん!時間切れ3分オーバー、残念無念。この地点で500人近くが強制リタイア。スタートから4時間33分、32、5キロ。私の初マラソン挑戦は終った。                          
 このあとゼッケンを外しゴールを目指し歩き途中からタクシーを拾う。ゴールの競技場に着いたときは四時過ぎ高橋君に会う。その日の飛行機で東京に帰らなればならない。ホテルに帰り着替え直ぐ空港に向い、空港から応援団長の志喜屋さんにお礼と無事の報告電話をし機内へ。帰宅したのは10時半、風呂に入り就寝。翌日はなんとか出勤、朝礼に出る。本格的後遺症は翌日の水曜に襲ってきた。大腿前部に痛みが走り階段の下りに難儀した。痛みが取れたのは金曜日だった。       
 月曜日になって沖縄の何人かの知人から「ナマラソンに出ましたか?」という問い合せが続いた。続報も入ってきた。元沖縄IBM内藤所長は今年も駄目だったらしい。宮城琉銀東京支店長は体調不十分で17キロ地点でリタイアしたとのこと。電脳の池間課長は制限時間ギリギリで走り込んだとのこと。私の同期のジャズピアニスト、琉大教授、琉銀役員いずれも中間地点でリタイヤ。驚いたことに天田専務の28才になるご子息さんが単独参加4時間20分で完走している。聞けば学生時代マラソンが得意でラグビーでも鍛えていたとここと。
 いま思うことは42余キロのフルマラソンは伊達や酔狂ではできないこと。完走するためにはもう一段の脚力と心肺力の強化が必要なこと。いまの私の力では正直歩かず走れる距離はハーフが精一杯であること。そして高橋君は別格として大して練習もせず走りきった仲村君と玉城君の若さ、それに過去二度完走を果たした志喜屋さんの底知れないパワーに改めて敬意と驚嘆を感じた。                  1992年12月13日記
 この時の悔しさを秘めて捲土重來、翌93年の第9回ナハマラソンへ向けて準備、挑戦、その年、遂に生涯初のフルマラソン完走を果たす。時に53歳!以下その完走記を発信します。 
                                        

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 汗と涙の初マラソン挑戦記⑥

2007年05月10日 | 「マラソン挑戦」
 やおら気を取り直しまた走る。行けるとこまで行こうと気を取り直し走り始める。とにかく皆が待っている35キロを目指す。しかし気持ちに体がついて行かない両膝が痛み息苦しい。これは練習で経験したことのないことだ。そこで3分歩き5分走ることにした。
 それはやがて5分歩き5分走りになりついで10分から15分歩きになった。
このころ盛んに急救車のサイレンが鳴り行き来する。2人が道端に倒れているのを見掛けた。1人の若い女性は「苦しい苦しい」と叫び声を上げ介抱されていた。この大会一九人が急救車で運ばれ一人が重体とのことだった。25キロ余の「ひめゆりの塔」に達する 中学の時の修学旅行、高校卒業時の自転車ツーア、観光バスで何度か来たあの「ひめゆりの塔」についに走って来た。格別の感慨がよぎる。Tシャツは汗と沿道のシャワーでグッショリ、靴も靴下も水を飲んで重い。
 糸満市内に至りまたも「重田社長!」と沿道から声を掛けられる。驚いたことに「電脳」の佐和田部長だ。先方も驚きの表情だ。この人は糸満にお住まいか。走り来られ手にした袋からヤクルトを2本くださる。歩いているわけにはいかない。急に元気が出るとともにいささかの見栄もあって気持ち颯爽と走り出す。しかしそれも部長の姿が遠のくと再び歩き始めるまもなく第二の足切り点の32キロ。時刻は1時30分前。沿道の「あと500Mガンガレ!」という声に奮起し疲れた体を励まし必死に走るが標識点はなかなか見えない。脇を走る人の「本当に500Mかな」という声に全く同感だ。「あの野郎、嘘言いやがって」と自分の不甲斐なさは棚に上げ、さきほどの沿道の善意の応援者を恨む始末だった。 
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汗と涙の初マラソン挑戦記⑤

2007年05月10日 | 「マラソン挑戦」
 15キロ過ぎると市街区から両側に黍畑の農道になり豚牛舎の臭いが微風に乗って延々と続く。この臭いはマラソンマニアの県外参加者には有名な話とのこと。やおら突然「社長!社長!」と沿道から声を掛けられた。見ると㈱ちゅうこんの宮里部長だ。きっと参加している社員の応援に来たのだろう。手を上げて応える。              
 19キロから21キロにかけて40M以上のアップのこのコース最大の登り坂に達した。ここは本社の階段で鍛えた成果の見せどころと自分に言い聞かせ頑張る。坂を登り切るとあと1キロで中間地点の平和記念公園だ。時計を見る。正午前だ。12時までに着かないと足切に会う。とにかく必死に頑張る。前方に塔が見え公園に入る。大変な応援人だ。宮城さんが来ているはづだが見えない。         
 中間点22キロ、間に合った。11時55分。私の同期のほとんどが目標にしているハーフ地点だ。5分も走った後方でボーンボーンという花火の音が聞こえる。あとで聞いたところではここで1000人ほど足切りされたという。それにしてもハーフに3時間近くかかっている。時間内完走は無理かとの思いがかすめる。 出発のとき「社長頑張って下さい」といった本社の浅田、沼沢、多和田、田中さん達の顔が次々浮かぶ。どうしょうか。ついで「社長、決して無理しないで下さい」との天田専務の声を思い出した。これを機についに歩き出した。
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「’92年、汗と涙の初マラソン挑戦記④」

2007年05月09日 | 「マラソン挑戦」
 「社長!社長!」と呼びながらセーター姿の久高さんが私に併走しながら「大丈夫ですか、山城さんも志喜屋さんも来ています」という。急に元気が出て「やあ!」と答える。すぐ山城さんが「社長!社長!」と大きな目をより大きく見開いて右手にバナナを左手にドリンクを差し出してきた。昨日バナナを頼んだのをキチット守ってくれたのだ。しかし食欲はない。ドリンクだけをもらう。私より五Mほど先を走る玉城くんの写真を撮った志喜屋さんが走り戻り「社長!ポーズ、ポーズ」という。それに応え帽子を掲げる。
    
 「もう一枚撮りましょうか」という声に「35キロで」と答えると「大丈夫ですか」再度聞いてきた。私は「大丈夫!」と答えて走り去ったが結果は大丈夫ではなかった。しかしこの10キロから15キロは長かった。それにしても山城さんからもらったドリンクはよく冷えて美味しかった。全身にしみわたり精気が蘇った。あれはきっと直前までアイスボックス等で冷やしていたのだろう。走りながら興奮した三人を思い出して可笑しかった。
 あれはきっと15キロまで来た私が意外だったに違いない。             
     
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「'92年の汗と涙の初マラソン挑戦記③」   

2007年05月07日 | 「マラソン挑戦」
'92年12月6日6時に起床。7時前に朝食をとり8時過ぎに競技場入口で高橋君と落ち合い軽くストレッチ。午前9時、空港近くの奥武山競技場をスタート。北海道から鹿児島までの県外3千人を含め1万5千の参加者。このため号砲がなっても私の前は全く動かない。ゲートを潜ったのはなんと9時12分。このとき先頭はすでに4キロ手前の安里三叉路に達していた。まるでラッユアワーのように押し合いへし合うように国道58号線わが社の手前を右折沖縄タイムス前から国際通りに向こう。ペースは遅いと思ったがとても追い抜くスペースはない。与儀公園から市民会館前に小太鼓を鳴らした小母さんたちの力強い応援。沖縄ならではの風景だ。

 10キロ手前気温はすでに二四度早くも汗が流れる。しかし適度の風があり走りやすい。スローペースのためか息も弾まずこの調子ならなんとかいけると思う。南部農林高を過ぎた10キロ地点沢山の応援人が集まっている。時計を見たら10時過ぎ、遅い。実はこの時点でよほどペースを上げないと制限時間内の完走はむつかい状況になっていたのだ。15キロには志喜屋、山城さん、それにひょっとすると久高さん達が応援待機のはず。しかし延々走れども走れども15キロも応援陣も見えない。標識を見失ったか思う。来ていないかと思い始めた矢先一五キロの標識が前方に見えた。左側にいるはずの3人に発見されやすいように路側に寄っていく。       
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朝吼夕嘆

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