”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「悲劇の島!奄美!」

2010年04月25日 | 「20年振りの故里!」

          (瀬戸内湾越しに枝手久を望む)
 奄美を称して“悲劇の島”という人がいる。これは“開発、観光、人口“等々の”近代用語、コンセプトからの呼称だ。
 現に島内挙って歓喜をもって迎えた日本復帰した1953年の奄美人口20万がその後、減り続け現在は半分の10万近くまで減少しているのに対し、基地反対、公害に悩む沖縄は当時の70万から倍近い130万に近付いている。あんなに騒音、米軍犯罪に苛まされている基地の島・沖縄は住み難い筈なのに何で人口は増えるのか。対して緑豊かな静溢の島、大島は住み易くは無いのか?
 今、奄美の加計呂麻島では鹿児島の製紙チップ企業の進出に対し、自然保護の見地から反対運動が湧き上っている。雇用促進、収入と自然保護の兼ね合い、メリット、デミリットを科学的に考察、検討が悩ましい。
 かつて、この島では同じ様に枕木用の森林伐採や枝手久島での石油基地は伝説の反対闘争で撤退させた。結果、宇検村は栄えたか?人口は増えたか?生い茂る奄美唯一の資源、森林は保護と共に食いもの・消費しない活用は検討出来ないか。
過疎と非開発礼賛の自然保護至上、人口増加等の開発可としない我々非日常の“まれびと”(稀々来る人、招かれ来る人)のエゴ・価値観では俄に判断し難い。
 その昔、ポンポン船に酔いつつ渡った瀬戸内湾をフェリーで車ごと渡り、ハブに怯えながら徒歩で登った山道をバスでアスファルト疾走出来るのも近代開発のお蔭ではないか。近代、開発で失うもの得るもの諸々考え、思い悩んだ今回の故郷、帰省の旅でした。
 今回の30年ぶりの故郷回帰、名瀬から古仁屋と奄美大島縦断の又と無い回顧機会を作ってくれた原さん兄弟に内倉さんに大感謝です!ありがとう!謝謝!!    

         
               (油井岳から対岸・加計呂麻島を望む)
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「島へ!」

2010年03月29日 | 「20年振りの故里!」
 小学校を過ごした古仁屋を後にいよいよ両親の故郷、島尾敏雄ではないが“島へ”!満州・大連から引揚げ古仁屋へ引っ越す前の数ヵ月過ごし須子茂とは言え、正月、夏休毎に海渡り、山越え訪れた祖父母の住む須子茂村は古仁屋以上の故郷。昭和20年の終戦直後には100所帯もあったこの須子茂島、今は20所帯、しかもその内6所帯は後期高齢の一人暮し。誰が言ったか“悲劇の島”。
 古仁屋港から船で15分、対岸の瀬相村へ。昔は徒歩で越えた山道を10数人の乗合バスで反対側の須子茂へ向う!車中乗り合わせた小母さんが運転手と話す“島ことば”音楽のように耳に響き、亡母音調を思い出す。
幾重も連なる山道かと思うと度々広がる海峡眺望、島ならではの山海パノラマ。峠を越え対岸の須子茂離を眺めつつ15分で到着。出迎えの従兄と共に早速、祖父母の眠る島郷土墓地へ参拝。幼時度々訪れた珊瑚礁と貝殻道を踏みつつ伯父宅へ向う緑に囲まれた路地は昔と少しも変わらぬ島風情。
 島在住の親戚知友が三々五々集まり、時に涙ぐみつつ故両親の思い出と大連、沖縄を共に過ごした従兄弟の回顧談に耳を傾け、時間を忘れました。

           
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「20年振り、古仁屋へ!」

2010年03月05日 | 「20年振りの故里!」
                     (古仁屋小学校正門・築山前で)
 二日間の奄美市IT視察ツアーを抜け、瀬戸内出身仲間と共に小学1年から6年まで過ごした古仁屋へ向う。名瀬市から10を越す延べ2キロの山中トンネルを潜り山間、海岸沿いをくねくね車行1時間弱、懐かしの古仁屋に到着。
 秋篠宮ご夫妻も泊まったといわれる町一番の高級?「ライベストイン奄美」ホテルへチェックイン。直ちに微かに記憶に残る小学時代を過ごした本願寺前から古仁屋高校方向に繰り出す。大火事で半分が喪失したかっての記憶の中の町並は激変、思い出繋ぐに途方に暮れる。それでも卒業目前に沖縄に去った古仁屋小学校正門内の蘇鉄茂る築山、そして校庭奥の階段上に聳える昔は全ての学校構内にあった懐かしの奉安殿は記憶の姿そのまま!同行の古仁屋小学校卒後輩の「奉安殿って何?」との質問に驚く私の方がおかしいのか!
 全校を代表して学芸会開催挨拶した入学早々の小学1年、主役の「熊さん」を演じた2年生時代、1年時担任の祈先生、2、3年時の林先生、4年の森先生を偲びつつ、構内一巡。
 セキュリーティとか何やらで部外者を一切排除する何処やらの学校と比べ、出入り自由の島の学校の開放、大らかさに感謝しつつ暫し佇む。願ってもないこうした機会を作っていただいた原、内倉両氏に感謝!有り難う!
 
             
                      (懐かしの奉安殿前で)
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「奄美のユニークIT企業訪問」

2010年02月22日 | 「20年振りの故里!」
 奄美大島もそれなりのサイズでIT企業創業、誘致で経済振興を図っている。
今回奄美(旧名瀬)市に所在するIT関連企業10数社が任意団体「e-amami」を形成していますが、今後のより一層の連携とシナジー効果を目指し共同組合形成を準備している。今回の首都圏私共19社からなるビジネスモニターツァ招聘も実はこの任意団体と奄美市のジョイント企画によるもの。
ツアースケジュールとして、この中のいくつかの企業を訪問、見学しました。その中で小規模ながらいくつかのユニークな企業に興味を惹かれました。その一つはSOHO方式を取り入れながら広く関東地方からも入力業務を受注している㈱南西テレワーク。なかでも、印象深い業務は”デジタル採点”。これは学習指導の採点を遠隔ネットで受託の極めてユニークな作業。
 また、あの光通信がNTTの”ひかりONE”やSOFTBANKのネットセールスを展開していたことにはびっくりしました。
 今回の現地企業訪問で最も印象に残っているのは「e-amami」未加入ながら、横浜クインズタワーに本社を置く島出身女性ベンチャー中山社長が経営するフィーチャネットワークス社が名瀬市にHP、コンテンツ開発とサーバー保守サービス拠点を展開していたこと。瀟洒なビルに高度のセキュリティー設備を装備、遥か首都圏ユーザのバックアップサーバーメンテナンスのビジネスモデル。
 遠隔、島嶼とは云え、島に対するこだわりと愛情があればユニークなビジネス展開の可能性を感じた今回のツァーでした。

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20年ぶりの故郷奄美訪問。

2010年02月18日 | 「20年振りの故里!」
 奄美市庁の招聘で奄美大島に来ています。
早朝6時、気温6度の埼玉自宅を出て、11時半気温14度の奄美空港に到着。空港から直接、地元高校や専門学校現場視察、市と地場IT経営者のプレゼンテーションと名詞交換、交流会。
 これは奄美市が国土開発庁の「離島航空路線維持・活性化」補助を活用し、IT関連事業誘致と雇用促進を図り、地元経済の振興を目指す事業。これに応じ、首都圏からIT経営者20名が参加しました。
 IT産業のNearshore誘致による地域振興は全国で行われている現在、人口減、過疎著しく,普天間米軍基地の移転先提供担保に政府から多額の補助金を引き出すわけにも行かない奄美、豊富な若年労働者と助成金による企業誘致の沖縄県等にどう対抗するか?
結局、効率至上や規模を追うのではなく、OceanレジャーやIslandテラソピー等に拘る人材やとニッチな領域に限定し、他地域には無い方策を探った方がいいのではないか!例えば、Uターンを目指す島出身の故郷への思いをトリガーに小さくスタートしてもいいのではないか!
 様々な課題はあるものの地元市と経営者の熱い思いに接し、何が出来るか思いあぐねた10年振りの故里訪問でした。このような機会を作って頂いた奄美市関係者の皆様、有難うございました

                (東京参加の仲間と)
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朝吼夕嘆

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