(瀬戸内湾越しに枝手久を望む)
奄美を称して“悲劇の島”という人がいる。これは“開発、観光、人口“等々の”近代用語、コンセプトからの呼称だ。
現に島内挙って歓喜をもって迎えた日本復帰した1953年の奄美人口20万がその後、減り続け現在は半分の10万近くまで減少しているのに対し、基地反対、公害に悩む沖縄は当時の70万から倍近い130万に近付いている。あんなに騒音、米軍犯罪に苛まされている基地の島・沖縄は住み難い筈なのに何で人口は増えるのか。対して緑豊かな静溢の島、大島は住み易くは無いのか?
今、奄美の加計呂麻島では鹿児島の製紙チップ企業の進出に対し、自然保護の見地から反対運動が湧き上っている。雇用促進、収入と自然保護の兼ね合い、メリット、デミリットを科学的に考察、検討が悩ましい。
かつて、この島では同じ様に枕木用の森林伐採や枝手久島での石油基地は伝説の反対闘争で撤退させた。結果、宇検村は栄えたか?人口は増えたか?生い茂る奄美唯一の資源、森林は保護と共に食いもの・消費しない活用は検討出来ないか。
過疎と非開発礼賛の自然保護至上、人口増加等の開発可としない我々非日常の“まれびと”(稀々来る人、招かれ来る人)のエゴ・価値観では俄に判断し難い。
その昔、ポンポン船に酔いつつ渡った瀬戸内湾をフェリーで車ごと渡り、ハブに怯えながら徒歩で登った山道をバスでアスファルト疾走出来るのも近代開発のお蔭ではないか。近代、開発で失うもの得るもの諸々考え、思い悩んだ今回の故郷、帰省の旅でした。
今回の30年ぶりの故郷回帰、名瀬から古仁屋と奄美大島縦断の又と無い回顧機会を作ってくれた原さん兄弟に内倉さんに大感謝です!ありがとう!謝謝!!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/4a/ac85a681f87c25d0c60432246cdac7bc.jpg)
(油井岳から対岸・加計呂麻島を望む)