(私が入学した首里城跡の琉大と放生池)
私は那覇高校を創業し琉球大学(法政科)を受験します。当時農学部長を務めていた泉裕巳さんから「辰弥君、法政科現役で一番合格ですよ」と聞いて帰宅した父の顔が忘れられません。この泉裕巳さんは当時琉球政府の副主席を務めていた泉有平さんの子息で、私達と同じ奄美の須子茂出身でした。このお二人は共に九州大農学部卒でした。
今思うと、あろうことか、琉大新入生の私は地元紙に当時グランド施設用地として学内で揉めていた「放生池埋め立て問題」で大学を難詰する投書をしました。当時、安里学長を補佐しこの問題解決に奔走しつつ、英語授業を担任しておられた翁長先生から“あれは君か?”と問われました。またこの件について泉先生が父に“辰弥君のあの投書はちょっと!”と注意があったようです。この投書問題が原因ではありませんが、私は結局琉大を一年で辞めることになります。その一因は沖縄在住奄美本籍者は琉大卒業しても公務員や教員等の公職就職はもとより、当時多くの琉大生が目指したアメリカ留学資格もなく、前途への閉塞感があったからです。同時に、先の国費・自費制度によって、九大、阪大、徳島大、信州医大、新潟大医学、東京医科歯科大等に進学した那覇高3年4組のクラスメイトを見て、琉大の自分がなんだか落ちこぼれのような気になり、授業には出ず翌年の早大受験を目指し、学内の志喜屋図書館で受験勉強ばかりしていたら、大学から除籍退学通知が来ました。
(琉舞・諸鈍)
奄美から沖縄に来て双方のカルチャの違いを感ずる一方、融合や架け橋を感じました。それは沖縄で琉舞古典七踊の筆頭に掲げられる「諸鈍」舞踊を見ての確認でした。と言うのは、諸鈍とは私の故郷奄美・加計呂麻島にある集落で、ここに源平の戦いに敗れた平資盛が移住し、土地の人々との交流を広めるため教えた舞踊が“諸鈍シバヤ”として定着したという伝説です。以後、島の人に継承され「国指定重要無形民俗文化財」に指定され、住民の過疎化を圧して毎年催されています。何故この集団男踊りの“諸鈍シバヤ”と女一人踊りの琉舞“諸鈍”があるのか?
東シナ海と太平洋に面する”諸鈍長浜”と呼ばれる流麗なこの港には琉球王朝のマーラン船が度々寄港し、交流があったようで“諸鈍みやらび,カーギーのチュラサ”という琉球古歌もあるようです。この諸鈍村は沖縄と奄美を繋ぐ拠点だったのか?
私の高校同期の琉舞師匠に「奄美の加計呂麻に諸鈍という村があるよ!」と言ったら“えー?”と驚いていました。一方、諸鈍出身の同級生に“諸鈍という琉球古典舞踊があるよ!”と言いたら“へ!”と。いずれにしろ、沖縄と大和の架け橋の一面を我が故郷奄美を感じました。
(奄美・諸鈍シバヤ)
(大連広場)
私は満州の哈爾濱で生まれ、7歳まで大連で育ちましたが、この二都市はロシアが設計し、日本が建設したと言われています。大連はダリーエンと言うロシア語に由来し、その中心街はエッフェル塔を中心とするパリ―を模写しそっくりです。当時の哈爾濱には白系ロシア人が多く移住し、私達の哈爾濱の大家さんもロシア人で私が生まれた時も“ハラショウ!シンパチュナー、スパシナ!”(コンニチハ!カワイイ)等々と可愛がってくれたと母が言っていました。
大連で私達が御付合いのあった中国女性の多くは背が高く色白で、後に私が北京や福建省でお会いした中国人とは違った印象があります。今思うと大連は漢族ではなく清族で、親日的要素があります。中国に進出した多くの日系IT企業が大連の親日性を言います。20年前、傘寿を迎えた母を連れてかって暮らした大連の澤ビルを訪ねた時もお住まいの中国人に暖かく迎えられました。
勿論、旧日本軍による満豪侵略、占領、「五族協和、王道楽土」を是とする訳ではありませんが、この満州は戦前の"新官僚"による満州開拓結果の一側面を感じます。
(私の琉大合格を通知頂いた農学部長の泉裕巳兄さん)
奄美諸島は人口減少が続き、現在10万人になっているようですが、昭和25年には22万人を超える史上最高でした。これは太平洋戦争の終結により、当時満州や韓国、台湾等に移住していた島出身者の帰郷が大きな要因でした。昭和22年、7歳の私も両親、妹と共に大連から奄美に引き揚げて来て、古仁屋小学校に入学しました。
1945年(昭和20年)9月2日、本土から分割され沖縄と共に米国民政府の統治下に置かれた奄美大島出身者は親戚のいる鹿児島や大阪等の本土に行けず、許可なく渡航すると密航者として逮捕されました。山海に囲まれ平地が少なく米作も難しく、漁業以外の産業もなく外地引揚人口増加で貧困に喘ぐこの頃の奄美では、当時同じ米軍統治下の沖縄に大勢、出稼ぎ移住しました。実はこのころ南北朝鮮戦争の勃発を背景に沖縄では米軍の基地建設で空前の人手不足と景気高揚があったのです。私達の出身地の須子茂の伯父、伯母、従兄弟たちも挙って沖縄に出稼ぎに行きました。女性達の多くは沖縄のコザ近界で米軍人相手の水商売店に務め、お盆や年末に帰郷する彼女達の華麗な服装に呆然とし“沖縄って凄いナ!”と感じました。
私の父も昭和26年、沖縄で出稼ぎしていた従兄弟に呼ばれ、沖縄に渡り3年後に母と私達妹弟も沖縄に呼ばれ移住します。以来私は小学6年から琉大1年まで8年間、沖縄に暮らすことになります。当時沖縄には清水建設、大林組等の本土の大手建設会社が進出し、米軍建設に携わり、これら会社はエリート勤務先で憧れの的でした。父もこの建設会社の下請け会社で働いていました。
(1959年、那覇高同期の国費(26名),自費(41名)合格を伝える校内新聞)
前回述べた国費、自費試験を何故私は受験しなかったというと、私にはその資格は無かったのです。1953年奄美大島が日本復帰し、当時沖縄にいた奄美出身者は外国人扱いになり、在琉許可登録(外人登録)を義務付けられました。納税義務はあれど参政権は無く、今の在日韓国人のような扱いでした。奄美出身の私は国費、自費受験資格もなく、琉大に行っても米国留学の資格もありませんでした。
先日、触れた私達の高校時代は国費、自費受験は憧れの的で、同期のトップクラスは殆どこれに挑んでいました。当時の琉大はこの国費、自費受験に失敗したメンバーが多く、琉大合格しても毎年、翌年、翌々年には国費、自費を受験するメンバーがおり、言わば琉大は予備校の要素がありました。また、琉大、中でも最難関の英文学部卒のトップクラスはガリオア資金(米陸軍省の「占領地域統治 救援資金」)を受け、米国に留学しました。この米国留学卒業生は「金門クラブ」を形成した沖縄のエリート階級でした。当時の私達にとってこの日留(国費・自費)と米留はエリートコースで憧れの的でした。
ところが、1953年に奄美大島が日本に復帰し、私達在琉奄美人は納税義務があるものの参政権のない外人扱いで「在琉許可書」の外人登録を義務付けられました。言わば現在の在日韓国人と同じ扱いです。学校を卒業しても公務員や教職への就職は出来ませんでした。 奄美出身の私は先に述べて国費、自費、米留の資格もなく、入学した米国民政府管理下の琉球大を当時の文部省は大学と認めず、専門学校扱いで、沖縄の日本復帰は見えず、沖縄はグアムやパラオの様にアメリカの信託統治下に置かれるのではと、私は自分の未来に言いようのない閉塞感に襲われていました。これが私の琉大退学、”脱琉、北へ!”の動機でした。
(奄美の日本復帰後、沖縄在住奄美人として義務付けられた登録証=在琉許可書)
先日、触れた私達の高校時代は国費、自費受験は憧れの的で、同期のトップクラスは殆どこれに挑んでいました。当時の琉大はこの国費、自費受験に失敗したメンバーが多く、琉大合格しても毎年、翌年、翌々年には国費、自費を受験するメンバーがおり、言わば琉大は予備校の要素がありました。また、琉大、中でも最難関の英文学部卒のトップクラスはガリオア資金(米陸軍省の「占領地域統治 救援資金」)を受け、米国に留学しました。この米国留学卒業生は「金門クラブ」を形成した沖縄のエリート階級でした。当時の私達にとってこの日留(国費・自費)と米留はエリートコースで憧れの的でした。
ところが、1953年に奄美大島が日本に復帰し、私達在琉奄美人は納税義務があるものの参政権のない外人扱いで「在琉許可書」の外人登録を義務付けられました。言わば現在の在日韓国人と同じ扱いです。学校を卒業しても公務員や教職への就職は出来ませんでした。奄美出身の私は先に述べて国費、自費、米留の資格もなく、入学した米国民政府管理下の琉球大を当時の文部省は大学と認めず、専門学校扱いで、沖縄の日本復帰は見えず、沖縄はグアムやパラオの様にアメリカの信託統治下に置かれるのではと、私は自分の未来に言いようのない閉塞感に襲われていました。これが私の琉大退学、”脱琉、北へ!”の動機でした。
( 那覇高校同期と!~真ん中の私(^○^))
昭和34年那覇高を創業した私は当時首里城敷地内にあった琉球大学(法政科)を受験します。当時農学部長を務めていた泉裕巳さんから「辰弥君、法政科現役で一番合格ですよ!」と聞いて帰宅した父の顔が忘れられません。
この泉裕巳さんは当時琉球政府の副主席を務めていた泉有平さんの子息で、私達と同じ奄美の須子茂出身でした。このお二人は共に鹿児島大農学部卒でした。この泉さんは当時父が経営を委託されていた「南西鉄工場」のオーナーでした。
今思うと学部長とはいえ、この入試情報を良くまあ遺漏と当時の大学の情報管理の甘さを感じます。私はこの「琉大法政一番合格」を聞き、喜びより,”えー!なんで私が!”と驚きまました。と言うのは私の高校同期のライバルは当時の沖縄県の国費・自費制度によって、九大、阪大,徳島大、信州医大、新潟大医学、東京医科大等々に進学し、琉大受験はこの国費、自費の落ちこぼれの一面があったのです。琉大合格者の何人かは翌年、また国費、自費に受験する予備校の一面もありました。私はなんだか「落ちこぼれ組の一番」のような気分になり、授業には出ず翌年の早稲田受験を目指し、学内の志喜屋図書館で受験勉強ばかりし、結局琉大を一年で辞めることになります。ここで触れた国費、自費制度と当時の琉大については次回!
(昭和40年、埼玉県北本市の一戸建て住宅購入、移住)
首都圏在住の沖縄、奄美出身者の多くは鶴見・川崎等に住んでいますが、時に「重田さん、どうして埼玉に住むようになったの?」と聞かれ、我と我が身の経緯を振返りました。満州、奄美、沖縄、東京と漂流した私は大学も琉大、早稲田、中央大、東大(新聞研)を転々。とは言え、卒業したのは早稲田だけ。琉大は1年、中央大(第2学部)、東大(新聞研)は数カ月で中退。その経緯は後程。職業は新聞記者、公務員、コンサルタント、IT会社経営と転職の経緯も後程。琉球新報東京支社の記者を1年で辞め、関東行政監察局に転じ、浦和の行政監察事務所に配属され京王線・上北沢から3年通いました。その節、沖縄の両親を呼び寄せるべく、埼玉県が北本市に住宅団地を建設、分譲することを知り、購入申し込みをしたのですが、庭付きの一戸住宅で購入競争が激しくなかなか(´Δ`;)そこで上司に相談した所、何と県担当者に掛け合い?購入することができ、両親と妹弟を呼び寄せ、成婚、以後その北本に5年間住むことになりました。ここで両親を送り、北本の寿命院墓地に両親の墓を建立しました。 その後、私はビジネスコンサルタント社に転職するのですが、北本市からの高崎線での東京への通勤は遠く、転居を目指し、昭和61年、何とか大宮以南の現在の与野市で住宅を購入転居、以来40年以上埼玉県民として今日に至りました。