(古仁屋港を後に加計呂麻島・瀬相を目指すフェリー船上から)
(名瀬から古仁屋へ向かう三太郎トンネル?)
「奄美ICT振興協議ツアー」で名瀬市に一泊した翌朝10時、帰任の瀬戸内町職員車に便乗依頼、途上随所に先般の大雨災害修復工事跡の残る山道を左右に揺られつつ1時間余、古仁屋着。魚屋営む港近い従妹宅で暫し休息。3500円でフェーリ船雇い25分弱で対岸の加計呂麻島の瀬相(せそ)村へ着。運転搬送予約のライトバンで島裏側の故里・須子茂へ15分で到着。料金は2000円。
到着した午後12時過ぎからそ5時間で本家従兄宅と親類縁者3宅を訪問、亡き両親の思い出から、共に大連、ハルピン、沖縄と渡航、移住の往時回顧。琉球、薩摩世とまでは言わずとも満州から沖縄、関西、名古屋と移住、翻弄された私の親近世代、奄美同胞共有の運命を改めて思い知りました。
両親の生まれ故里・ここ須子茂の所帯数は私が小学の頃、100近い世帯がありましたが、現在は僅か20世帯、それも半数が70歳を越す高齢の一人暮しで、朝夕の食事も宅配便で暮している。
南の過疎、高齢“ゆい”(助けあい・相互扶助)を標榜するこの奄美の村々、さぞ和気藹々、仲良く暮していると思われるでしょうが、内実は結構相互に嫉み、いがみ合い、陰で非難の応酬暮らし。しかし、よく観るとこの態様言動、善意は無くともそれ程の悪意はなく、他から押し付けられた教養や躾を排した人間の本音、剥き出し、憂さ晴らし、見方によっては狭いでのストレス、解消、安全弁、生甲斐になっているようです。
島々の心情、有り様、実態は外部が賞賛する様なそうそう綺麗事ではありません。それでも島への思慕は変わりません。まあ、親しい故の兄弟喧嘩のようなもの!島んちゅ同士のこの応酬、言わば別バージョン・島歌掛け合いサウンドバックを聞く思い でした。
写真は名瀬から古仁屋までの1時間近い山道ルート、通行に不自由は無いものの未だに残る、車窓から見た先般の豪雨爪跡です。