”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「奄美・沖永良部島の近現代と“脱沖入日”」:高橋孝代

2009年06月30日 | 「Weekly 読書感想」
声とかたちのアイヌ・琉球史 (叢書・文化学の越境)

森話社

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 本編は先に紹介した吉成直樹編「声とかたちのアイヌ・琉球史」叢書中に編纂掲載されていることに違和感を感ずるほどにアイヌ・琉球史とは関連薄い論稿ながら、私にとって最も興味を惹かれ、一語一句思わず頷きつつ一気に読了した一遍。 内容は先に著者が上梓した「境界性の人類学」(弘文社)と重なる部分が多いが、本書の“脱沖入日”タイトル、言うまでも無く維新、福沢諭吉の掲げたスローガン“脱亜入欧”をもじったもので、この標語タイトルを見ただけで思わず“なるほど!”と笑みの出る私の同時代・心境史。書中には私が大島在住小学5年時の日本復帰祈願の集団断食体験や大島の復帰後在沖奄美出身として味わった差別?等の体験追記。
 ただ、同じ奄美といいながら、加計呂麻出自の私から見て著者の育った沖永良部には微妙な違和・相違感があります。
 それは40年前に読んだ一色次郎の美しい慕母記「青幻記」の中で亡母が海岸で踊る琉球舞踊描写に沖縄に惹かれる沖永良部心情を読んで“そうか、沖永良部は沖縄か!”と感じた記憶があります。私達・加計呂麻から見て沖永良部は“限り無く沖縄に近い島”。その感覚は奄美北部の笠利・龍郷は限りなく大和臭。ことほどに狭いながら奄美大島は多様で、はたからは統一、一体性が無いとの指摘もあります。
 ただ、著者も終章に書いている如く“アイデンティティーは可変的”時と共に変化し、現に私の奄美、沖永良部、沖縄郷愁感も居住地と交流する人々の変化と共に変わって来ています。

 著者の高橋さんが最近、沖縄大学の准教授に就任されたとのご挨拶頂きました。今後、さらに沖縄・沖永良部・奄美に関する研究成果を期待しています。
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気さくな「島尻安伊子参議員」に感服!

2009年06月28日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 先日の関東沖縄経営者協会総会に島尻安伊子参議員に来賓頂きました。これまで何度かパーティ等でご挨拶しましたが、直に親しくお話したのは初めて。以前から極めて気さくな人柄とは聞いていましたが「何か私で出来る案件あればお役に立ちますよ」と隔意ない対応には改めて恐縮、感服でした。
 島尻議員は上智大新聞学科卒、宮城県出身ながら米国留学の縁で慶応大卒・沖縄出身のご主人と知り合い、結婚、4人のお子さんを育てつつ那覇市議に当選。元来が革新派ながら県内保守派に推され、国会補選に出て当選。その人柄に接しその事由が分かったような気がしました。摩文仁の「平和祈念堂」活動を国会で質問、アッピールする等その“アイラブ、沖縄!”スローガンを実践、発揮。政治の世界でも”県、他府県拘りを越えた”ニュー・ジェネレーション台頭を再認識した一夜でした。
 「このカラオケ・ツーショット、アップしてもいいですか?」という私の問いにも「全然、問題ありませんよ、どうぞ!」とオープン!全く拘らない。
 島尻さん、ご多忙な最中、懇親会のみならず、翌日に国会質問を控えつつカラオケ2次会までにお付合い頂き、役員一同感謝、有り難う御座いました。
             

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「ワールド・カフェ」手法による方針検討会

2009年06月23日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 組織や集団でのコミュニケーション手法としての「ワールド・カフェ」をご存知の方は多いと思います。当社では全社員参加の年2回の経営方針検討会でこの手法を取り入れています。具体的には参加メンバーが4~5人の小グループに分かれ意見交換し、そこで各人が出した意見と気付きを皆の前に広げられた用紙にコメント記入し、共有する。ポイントはグループ・メンバーがほぼ20分毎に入れ替わり、インターグループ間での交流、 時にはその結果を壁に掲示し、全員がワン・コメントづつ発表するいわゆる「ポスターセッション」によって、社員間で課題の共有と参画と当事者意識の共有を図る手法です。 この手法は、1995年にJuanita BrownとDavid Isaacs開発・提唱されたもので当社では主として中村専務の先導・啓発で導入され、ほぼ現場に定着し、社員間の意見交換、合意形成に効果を上げています。
 留意しなければならない点は、CCMP、ODSC、PMBOK、SWOT、KPT等々と未消化のまま次々追いかける“手法に流される”のではなく、導入目的をしっかり見据え、自社の現場とフェーズにフィットした手法をじっくり自家薬籠化することが肝要。”終わり=数字、良ければ全て可し”とまでは言わずとも、経営はプロセスもさることながら結果こそ大事!
 その点、カンバンやカイゼン等、ネーミング自体を日本語化し、永年それこそ改善実施し、業績に結実させているトヨタ方式は今更ながら学ぶべき点が多い。
           
             (当社大阪事業所でのワールド・カフェ実践現場)
 

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「32期を控え、大阪・沖縄事業所に行って来ました」

2009年06月22日 | 「美ら島沖縄大使」便り
               (大阪・長堀橋の事業所での方針説明)
 来月からスタートする当社32期を控えた先週、関東沖縄経営者協会の総会を縫い、日帰りに近いタイト・スケジュールで社長と共に大阪・沖縄両事業所を往復、社員に来期経営方針を説明、討議して来ました。正直、いささかバテました。
 市場の影響を受け、売上ダウンながら11名の新人採用コストを背負う来期、社長の掲げた“正念場を乗り切る”スローガンの下、どう黒字を確保するか厳しい方針説明とQ&Aに臨みました。
 TOP方針の説明と共に「ワールド・カフェ」「ポスター・セッション」等の手法による社員同士の意見交換を通し“正念場”事態の共有と対応策を討議しました。この状況故か、Weekdayにもかかわらず各部門共に100%近い出席率と発表、質疑の参画率を見ていると役員の報酬カット方針を受け、賞与、昇給、残業料のコスト削減等対応を全社員で意思共有しました。各部門社員の真摯な取組を見ていると、全社一体の“正念場乗り切り”の予感がしました。
 決して油断は出来ませんが、お客様はじめ当社を取り巻く皆様のご支援、御鞭撻のほど引続きよろしくお願い致します。                      
             
                (沖縄・うるま市TTC内・事業所での方針説明)


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「関沖経営者協」総会を開催しました。

2009年06月20日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 6月18日、私共「関東沖縄経営者協会」は09年度の総会を開催しました。
記念講演は琉球大出身の知名定則ノーベル・バイオケア・ジャパン社のオペレーション本部長による「外資工場長として」の体験談。県出身ながら、アジア初の歯科インプラント工場進担当と破竹の業績貢献体験談は出席者に大きな感銘と勇気を与ました。
 仲村日産ディーゼル工業㈱顧問の乾杯ご挨拶で始まった懇親会は島尻安伊子参議員、呉屋県東京事務所次長、上地沖縄タイムス、上間新報両支社長等ゲストを迎え、70名近い出席者で盛り上がりました。
 今年は特に首都圏企業で活躍する県出身若手女性連を迎え、その起業意欲は会場にいつにない元気と活気を呼びました。
新活動方針として「先輩会員との交流、深化」「関東沖縄IT協議会との連携」「次世代起業家の育成・支援」の3つを部会を設立、活動推進する一方、豊里副会長、中島弁護士(琉大出身)の監事の新人事を決議しました。
また、長嶺為泰さんに感謝状を贈呈し、15年間に亘り、無償で会計責務に貢献して頂いたそのボランティア活動に会員一同感謝の意を表しました。
 余興には仲本クイチャーパラダイスによる琉舞・歌に「あまわり・アカハチ」東京公演を控えた勝連出身の若人3人の演武で会場湧きました。
          


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Sidney-Sheldon;「The Other Side of Me」

2009年06月16日 | 「Weekly 読書感想」
The Other Side of Me

Warner Vision

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 ペパーバックとは言え、400ページを越すSidneyの自叙伝。云うまでも無く、タイトルは彼の初期作「The Other Side of Midnight」をもじったもの。名し負うStory Writerの彼の自伝、果たしてFiction作品同様の面白さあるかと懸念しつつ読んで見ると、これが想像以上。二度の自殺未遂、両親と自らの離婚と再婚!パイロット志願への挫折!10回を超える転居、転校と転職の末、ハリウッドのシナリオライターとしての成功から全米随一の大衆作家への波乱万丈の人生。まさに“事実はフィクションに優る”。
 作中、デボラ・カー、ケリー・グラント、ジュディ・ガーランド、ビング・クロスビー、シャリーマックレーン、ドリス・ディー、カーク・ダグラス等々私達の中高時代を思い出させる綺羅星のような往年のハリウッドスター達との接点と出会い、素描。中でもあのセクシーだけが売り物と思われたマリリン・モンローとの会食とその意外な博識振りと内省的一面を紹介している部分には驚かされました。
 それにしても英語原文とは言え、この読者を惹き付ける平易な天才ストリーライタ振り。同時並行して読みつつ何度も途中放り投げようと思った邦文の馳星周の上下二巻の大部「弥勒世」とは何でここまで違うのか。
 自叙伝を書くということはもう創作活動を止めると言うことか。私にとってそれは司馬遼太郎が逝去し、その作品に触れることがもう無いかと思った喪失・絶望感に近い。これまでSidneyの20冊近い作品の殆どを読み、自宅に保持している。ある瞬間とは言え、感激、感興を与えてくれた書籍は自分の内面史のような気がして、とても古書店に売却する気にならない。お蔭で自宅は年々倉庫化加速、同居人の顰蹙を買っています。

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故・湧川ふき子さんに献杯!

2009年06月14日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 6月13日霞が関の「東海クラブ」で開催された「湧川ふき子さんを偲ぶ集い」に出席しました。主宰は「地球女倶楽部イナンナの会」(野田真智子会長)。出席は東京、関西、沖縄各支部の会員及び男性サポーター約50人。沖縄からも会員や高校同期の方が駆け付けられました。WUB東京からも長嶺名誉会長はじめ平良会長、読谷山さん、蝋山さんも参加されました。
 高校の先輩で沖縄代表?ということで献杯の挨拶役を指名頂きました。以下、要約です。
 「ふき子さんとの出会いは今から15年程前、彼女が東京・赤坂で㈱ミクプランニングをスピンオフし、㈲ぱずるを立ち上げた間も無く、彼女が東京沖縄県人会の事務局を手伝っていた頃です。彼女の記憶で最も印象に残っているのは、病気を患った後の入退院繰り返しつつの健常者顔負けの八面六臂の活動です。その中でも「対馬丸」記念館理事活動。
 沖縄戦最中の1944年、学童、引率教員等の疎開者2千名近く乗船の「対馬丸」がトカラ列島沖で撃沈され、1400名を越える犠牲者を出し、那覇市にその記念館があります。因みにその館長は私の同期の高良政勝君です。実は私の高校の先輩に当られ、当時中学2年の湧川さんのお父さんもこの船に乗っておられ、数日の漂流の結果、奇跡的生還されています。生前、私もお会いしたことがありますが、湧川さんの療養中に亡くなられています。実は「対馬丸」を検索すればそのホームページにその疎開、遭難、奇跡の生還の写真入の詳細なストーリをふき子さんのインタービー記事を今でも見ることが出来ます。迫り来る死をものともしないふき子さんのこのような不屈の意思と活動に改めて打たれます。
 改めて皆さんと共に亡くなった湧川ふき子さんのご冥福をお祈り、献杯したいと思います。“フッキー、貴方は凄かった!今、改めていろいろ教えられています!ありがとう!どうぞ安らかにお休み下さい!献杯 
            

 
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「関沖IT協」第4回総会開催しました。

2009年06月10日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 6月9日、東京銀座七丁目ライオンズビル六階「クラッシクホール」で第4回関東沖縄IT協議会総会を開催しました。製造・金融と私共IT企業の顧客・市場の不況不振の影響を受け、軒並み苦戦の会員、当日どれほどの参加があるやと懸念しつつのこの日の総会、蓋を開けて見ると、ゲストを交え70名を越す予想外の出席者。それもこれも事務局はじめ若手ボランティアのサポート、ご支援、参加の皆さんの賜物。ご協力改めて有難うございました。
 恒例の活動実績、来期計画、役員変更の総会後の記念講演は㈱南郷沖縄ソフトセンター社長による沖縄県IT振興の中核を担う津梁パーク構想の説明に続き、若手女性ゲスト参加者のアッピール。
余興は会員・ヤマトチュ(本土出身)による沖縄サンシンと歌。その後に続いたのは来る8月新宿厚生年金会館での公演準備活動の平田大一の率いる「肝高の阿麻和利」「オヤケアカハチ」若手メンバー3人の実演。噂には聞いていたそのパフォーマンスの迫力に満場息を呑み、万雷の拍手!日々苦境に苦闘するIT企業のこの日の参加者、県出身のこの若者の演舞に力を貰い、翌日からの課題挑戦意欲を胸に秘め、会場後散会しました。
 南郷さんはじめゲスト参加の皆さん、ご賛同、ご協力有難うございました。
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「同期・我部教授の意外な一面見ました!」

2009年06月07日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 早稲田大学で行われた我部政男・山梨学院大名誉教授による「沖縄学」講座を聴講しました。テーマは彼の研究専門分野である”沖縄近現代史と「本土化」/「国民化」政策“。
 その引用資料は明治日本陸軍の創設者とも言うべく山県有朋の沖縄視察と統治政策論。さらには“琉球処分”に伴う住民慰撫策としての尚氏本土召喚、華族処遇等を提言した当時一木喜徳朗内閣書記官沖縄視察報告論。テクストとして配布された明治近代化をリードしたこれらの史料引用は我部教授以外知らない。彼独特の領域ではないか。
 教授の所論には “琉球処分”後の「本土化」政策やそれに対する県内の反発、さらに戦後沖縄の日本復帰論や反復帰論に対し、クールで脱イデオロギー的視点を感じます。その論調は高所からの高説展開ではなく、措定・反措定、時に揶揄、よどみなく展開、飽きさせず場内に笑を誘うアカデミック漫才調。
 その上、こうした講義に例を見ない所定時間15分前に講義終了宣言と同時に、あろう事か100名を越える学生聴講生を前に、突然「重田さん、どうですか!」と私を名指す。当方、狼狽しつつ起立、挑発に応えようと勝方教授の差し出すマイクにシドロモドロ!いや、参ったよ、ルールー違反!我部君(^-^*) !
 驚いたことは講義後の慰労・懇親会に参集したトン女、ポン女、赤門、シカゴ、ウラジオスット帰りの留学生と遠方から掛け付けた世代を超えた多彩な教え子面々にご子息も駆け付ける子煩悩振り!時にシニカル、強面、さぞ敬遠されていると思いきや、かくも教え子に慕われているとは!優に10名を越す我々高校同期大学教授OB連の一人、我部教授の意外な一面を垣間見、感服!
         

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「那覇会に出席しました」

2009年06月05日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 在京の沖縄関係団体は企業団体、文化団体、同窓会、音楽舞踊関係と多種多様ですが、出身地を同じくする郷友会が最も多いのでは。それは地方、離島になるほど活動も動員力も盛ん。例えば沖縄県人会より八重山郷友会、さらに“しかあざ会、与那国郷友会。宮古、伊良部、佐良浜会と。本島でも島尻会、那覇会と。中でも「那覇会」は元々首里、真和志、那覇と旧市町村が合併しただけにいささか特殊。会長は沖縄学研究所長の外間守善さん。副会長は城岳同窓会長の山路さん。運営主要メンバーは限りなく旧制沖縄二中・那覇高校の城岳同窓会とひめゆり同窓会とダブル。出席して思うことはこの集い、講演会や記録映画上映、会員書籍販売、参加者のトピクス・メッセージと懇親・酒宴会よりも文化サークルの色彩が濃く、この日も方言スピーチやオペラ詠唱。お馴染の”かぎやで風“や“上り口説”琉舞にも何時に無い気品を感じました。
 会の連絡事務業務を当社子会社の㈱メディア21が受託しているため、多少の負担、違和感を抱きつつも“場所には行け、人には会え”と自ら励まし参加していますが、結果、毎回必ず果報な出会があります。前回は貿易商社を経営する同期の弟君に今回は大手住宅会社をスピンオフ、空調設備会社を経営する高校先輩の御子息さんとの出会いと人脈を得ました。幹事の皆さんへ感謝です。
              
                (オープニング”かぎやで風”を舞う柳井玲子さん)
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「おいおい!こらこら!」

2009年06月04日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 先に私がアップした「茨城巡査に千葉女中」というキーワード。これは維新後の明治、東京の巡査と女中にはそれぞれ茨城、千葉出身が多かったことから言われた言葉らしい。これは先にも書きましたが昭和の30年半ばに沖縄から上京した私がお世話になった中野は新山通りの下宿の小母さんから聞いたことです。
 この私のBlogコンテンツに対し、元朝日新聞記者の知人が“鹿児島警視に茨城巡査”というコメントを頂きました。これは明治警察制度の立役者、川路警視が薩摩出身であるように、会津戊辰戦争の余波、影響で薩摩出身が上級警視に対し、多くの会津武士は巡査ポジションに甘んじた結果だろう。
 それに関連し、標題の“オイ、コラ!”台詞を思い出しました。この言葉は今“これこれ、君、君!”という呼掛け用語として理解されていますが、本来これは鹿児島方言フレーズで、明治首都圏勤務の薩摩出身の警察官が使用した当初、声を掛けられた江戸人は戸惑ったという。地元では丁寧語のニュアンスもあると言いますが、“島人”の私には正確には判りません。
 以後この“オイ、コラ”は薩摩巡査に対する畏怖と諧謔両面で使われ、この支配者?のローカル方言が共通語化した結果か。打擲用語の”ビンタ”も元は鹿児島方言の”頭”という意味らしい。鹿児島出身を主とした軍隊用語として普及したのでは?
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「シュメル神話の世界」:中公新書

2009年06月03日 | 「Weekly 読書感想」
シュメル神話の世界―粘土板に刻まれた最古のロマン (中公新書)
岡田 明子,小林 登志子
中央公論新社

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 著者の岡田明子・小林登志子は共にNHK学園講師。岡田さんが私の大学のクラスメート故、何とか最後まで読み通せました。同じ西洋史学徒?とは言え、それほどまでに私にとってシュメルは疎い世界。とは言えティグリス・ユーフラテス両岸に挟まれたこの地域に飛鳥、奈良より3000年も前にこれほどの粘土・都市文明が繁栄していたとは!
 エデン、パラダイス、ノアの箱舟、ヘラクレス等々キリスト文明の原典とも言えるギリシャ神話や旧約聖書ストリーの源流が米国が目の敵にするイスラム中東地方に栄えた「シュメル神話」にあるとは。もっともメソポタミヤやシュメル人は他と混血、溶け込み、今や地上に存在せずイラン、イラクがその子孫とは言えないという。
 本書では粘土板に描かれた多くのシュメルの神々と絵姿とその物語が満載、紹介されているが、正直名前とストリーを追うに息も絶え絶え、ただ字面を追うだけだった。本書を理解するには著者達の「古代メソポタミヤの神々」(集英社)「シュメルー人類最古の文明」(中公新書)を事前に読んでおくべきかもしれない。
 ただ、一つ“愛と豊穣の神”イナンナが出るページだけは親しみをもって読みました。それは言うまでも無く高校後輩の故湧川ふき子さんが副会長を務めていた「地球女倶楽部」名称の誼。しかし、本書に紹介されたイナンナはビーナスやマドンナとは異なり、嫉妬、怒り、争いと極めて人間的。
 それにしても紀元前3000年前の文字とストリートが粘土版にかくも多く残っており、且つよくもそれを解読したもの。その物語ほどより面白かったのでは。岡田さん、シュメル世界との巡り合い感謝です。
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「WUB東京」総会に出席しました。

2009年06月03日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 今年発足10周年を「WUB東京」の総会に出席しました。会場は新装リフォームの霞ヶ関ビル35階「東海クラブ」。
 この日は、たまたまかWUBならではか、上運天沖縄県東京事務所、上間琉球新報支社、江口ラジオ沖縄支社、島袋金秀東京事業所、飯田沖縄ツーリスト支社と官民在京沖縄関係の東京出先の新TOPが勢揃い。それぞれメッセージを頂き、その他に稲嶺琉球新報東京支社デスクや照喜名県事務所副参事のご挨拶もありました。
 乾杯音頭ご挨拶の中でも申し上げましたが、世界に21あるWUB組織の中で他に誇るWUB東京の特徴は、HP発信、会員メンバーのネットユティリティーの高さに見られるITスキルと3代目を迎える会長承継。これは企業に偏らない個人のボランティア・メンバーシップによる組織構築の反映か。
 活動報告としての秀逸は有志によるネットによるニュービジネス構想。少し、残念なことは9月にラスベガスで予定された世界大会が豚インフルエンザのために中止になったこと。開催に汗を流された有志メンバーの皆さんのご苦労に改めて感謝です。


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「創業32期を迎えるに当たり!」

2009年06月01日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 当社は来る7月から創業32期を迎えます。それを一月前に控えた5月の29、30の両日、東京、静岡、名古屋、大阪、沖縄の各事業所から幹部社員40名が東京に参集、「32期・経営方針検討会」を開催しました。
 インフルエンザー蔓延の最中、延期の検討もしましたが、感染は冬場と共に増加することが予想されるので全員マスク着用、強行しました。このリセッション向こう3年継続を前提にこれをいかに黒字基調で乗り切るか “正念場を乗り切る!”をスローガンに掲げました。
 社長、専務の前期レビュー、来期方針説明に先立ち、私は創業以来の危機克服の先験と業界・市場のマクロ予測の開示に留めました。中でも社員に訴えたことは同業者3分の一近くが倒産、廃業に追い込まれた90年台当初のバブル崩壊不況時、3年連続の売上減にも拘らず、当社がいかに黒字で乗り切ったかの経験、教訓談。もちろん、当時とは市場環境も社内状況も大きくことなりますが“危機意識の共有”と“痛みを全社で分かち合う”には違いがありません。
 創業時の上意下達のトップダウン方式から、30年経過の今、二日目は相互コミューニケーション、衆知交流を目指す“ワールドカフェ”“ポスターセッション”等手法を採用およそ5時間に亘り、参加40人によるセッション、ミーティングを行い、現状認識とその対処、取組への意思統一を確認しました。これを基に今後一ヶ月、各事業所と部門を行脚、現場社員への方針説明会とQ&Aが続きます。
        
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朝吼夕嘆

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