”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「久々懐かし東京駅八重洲南口」

2020年12月31日 | 「美ら島沖縄大使」便り
        
 令和2年末の12月29日、久々に神田多町の事務所から有楽町まで歩きました。同行同伴は140以上島旅、脅威の離島ソムリエ・下山敦子さん!凡そ30分の歩行で目的地は沖縄県アンテナショップ「わした」で開催の山川夏子さんとシーサー玉城の「オキナワグラフ」トーク参加!途中、日本橋川沿・常盤橋公園内の渋沢栄一銅像。日本初の銀行や東京証券取引所、東京ガス、帝国ホテル、キリンビールなど500社以上創設の伝説の大実業家、神田小川町裏神保小道に住んでいたこともあったとのこと。ここから東京駅八重洲北口から南口へ。以前の都庁と三菱銀行本店斜め向かいの「三井八重洲ビル」は私が行政管理庁を辞めて8年間通った懐かしの㈱ビジネスコンサルタント入居ビル。このビル勤務があったからこそ、その後の創業独立の原点!過日を思い思わず落涙!撮影の下山さん、有難う!  
       
          (懐かしの三井八重洲ビル)

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「今後どうしようか?所属団体!」

2020年12月22日 | 「美ら島沖縄大使」便り
       
     (関東・沖縄経営者協会合同総会で乾杯音頭)
 前回、首都圏の沖縄関係懇親会「大城会」を紹介しましたが、沖縄各地の県人会や同窓会以外にも様々な懇親団体がありますが、私が参加する沖縄関係の団体は関東沖縄経営者協会、関東沖縄IT協議会、東京沖縄県人会、那覇会、沖縄フアンクラブ、沖縄大好き会、沖縄クラブ、ニライ会、三月会、WUB東京、関東城丘同窓会、琉球大学同窓会関東支部、高校同窓・同期会等々です。
 沖縄関係以外の奄美大島関係団体では「関東奄美IT協議会」「東京奄美会」「埼玉奄美会」、大学関係では「早稲田大学校友会」「浦和稲門会」「西洋史クラス会」、これ以外にITOB関係の「IT/SP会」「余人会」に参加しています。
 これらの会の例会はそれぞれ月一、年1回、数回と様々です。全ての会に年会費制がある訳ではありませんが、年会費総額10万円以上払っています。それ以外に例会参加毎に会費がかかり、この負担どうしようかと迷う昨今ですが、高齢に伴う認知症予防のためには“場所には行け!人には会え”の我と我がモットー?の為、継続頑張るかと懊悩です。とは言え、創設、会長を務めた「WUB東京」「関東沖縄IT協議会」「奄美IT懇話会」「関東沖縄経営者協会」はボケ防止と参加しています
       
             (東京那覇会)
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「大城会」

2020年12月16日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                                              
  東京には大城姓を持つメンバーが毎年集う「大城会」に一度ゲストとして呼ばれた時に200人近い盛大、高揚に圧倒されました。この会は東京生まれの大城さんが立ち上げたようで、異郷で生まれたからこそ故郷への郷愁回帰心が強く、結束の源か!沖縄ルーツの姓は大城以外にも比嘉や金城、玉城等々がありますが「大城会」以外にこうした会の存在は聞きません。因みに、東京には和歌山を起源とする「鈴木会」が長く続いているようです。
 首都圏には様々沖縄関係の懇親団体があります。
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「沖縄歌舞踊のパワー」

2020年12月13日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                  
     (琉装・琉舞のブラジル沖縄二世姫に囲まれ!)
 前回「歌と踊りの島・沖縄」について述べましたが「WUB東京会長」としてブラジル、ボリビヤ、ペルー、上海を訪ねた時、沖縄の歌と踊りのパワーを堪能、実感しました。各地で出会った沖縄二世、三世の若者は沖縄語を話せないものの、巧みに沖縄サンシンを弾き、エイサー、カシャシ―を踊ります。
 5年に一度行われる「世界のウチナワンチュ大会」でも琉球民謡とエイサーが行われ、言語を超えたウチナ―・アイデンティティーの共有でした。今首都圏でも琉舞、エイサー、サンシン活動が盛んですが、この参加メンバーの過半はヤマトンチュでは。実は「東京沖縄県人会」の財政を支えているのも東京琉球舞踊協会の支援とパワーです。私は時に鹿児島県人会にも参加しますが、こうした要素を感じたことはありません。全国最下位は脱したものの未だ学力、進学比率低迷する”沖縄の若者よ!バチを置いて書を読め!”の声もありますが、日本、世界を席捲、圧する沖縄歌舞踊文化パワーの凄さを感じました。とは言え、浄土宗念仏を起源とする素足で静かに舞う祈りエイサーが大音響,ダイナミックな祝い舞へと伝統舞踊も時代と共に変容するのか。
       
           (上海でカチャシー)
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「”幻の”安謝中から那覇高へ」㊾

2020年12月10日 | 「美ら島沖縄大使」便り
      
 私が在学した沖縄県の安謝中は一学年3クラスと那覇地区では垣花と並ぶ、弱小中学でした。当時の安謝中からの進学可能な那覇地区の普通高校は那覇、首里の2校に那覇商業、沖縄工業、沖縄水産の5高でした。現在多くある私立高校は未だ無く、高校入試を滑ったものは全て浪人し、翌年再受験でした。経済的に大学進学が難しい文系は那覇商業、理系は沖縄工業と水産高への進路でした。当時の那覇高は首里、名護高と並ぶ県内TOP高校で、当時は覇高に何人合格入学するかが県内中学のランクでした。私達安謝中同期120中、那覇高に進学したのは1クラス4人の12名でした。
 当時の高校入試は国語、数学、社会、理科、英語5科目で各科目30点、150点の満点の通試験でだったと思います。
 この”安謝中学”は3年で当時の安謝隣接の岡野(現在の那覇新都心)移転し安岡中学に名称変更し、われわれ卒業生にとって”安謝中”は幻の母校になりました(´;ω;`)”
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「歌と踊りの島!沖縄!」~「私の履歴書」㊽

2020年12月10日 | 「美ら島沖縄大使」便り
           
                (沖縄県立芸大)
 沖縄には県立芸大があり、他県でも京都や石川(金沢)にも芸大があります。大きく違うのは京都、金沢両県には県立工業大学があり、九州各県には芸大がないものの、第一工業大(鹿児島)、久留米工大、長崎科学大、西日本工大、九州工大等々各県には工業大学がありますが、何と沖縄には工業大学はないのです。これこそ観光等サービス産業隆盛ながら製造業不振、“歌と踊りの島・沖縄の象徴”では!
 沖縄にはOIST(科学技術大学院大学)がありますが、これは尾身幸次・元内閣府大臣の粘り強い主導に依って設立され、その維持管理費として毎年、多額の補助金が日本政府より支級され、国内外から研究者を集め世界レベルの研究形成の拠点です。大学院大学ですから県内高校からの入学は至難です。このOISTは米軍基地受領見返りの沖縄振興政策の一つか?
  島外に住む私が云うのもなんですが、人口過疎化急進の我が故郷奄美でも徳之島の旧日本軍基地跡に辺野古の基地一部を引き受け、その見返りにこうした島の振興策誘引をしては(´Δ`;)
       
         (恩納村のOIST)
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「2元、多様社会の沖縄?」~「私の履歴書」㊼

2020年12月07日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                        

 全てとは言いませんが概ね九州各県には新聞社、銀行、テレビ、ラジオ局等は一社、一行、1局が多いようですが、沖縄には何と「琉球新報・沖縄タイムス」「琉球銀行・沖縄銀行」、テレビも「RBC(QAB)・OTB」、AMラジオ局も「ROK、RBC」と夫々2紙、2行、2局の併存です。そう言えば、いずれも人口10万足らずの八重山、宮古、奄美にも「八重山日報・八重山毎日」「宮古新報・宮古毎日」「奄美新聞・南海日日」とそれぞれ2紙が併存しています。これは島嶼特有のカルチャか。とは言え、蝸牛角上の争いとまでは言わずともこれによる並存競合、切磋琢磨による島の活力の源と見なすことも出来るか!
 最近は連合や組合が出来ていますが、沖縄の空手・琉舞は多派済々。県内泡盛酒造社は40社を超えるようですが、170億近いその総売り上げは宮城県の霧島酒造1社に遥かに及ばないとのこと(´Δ`;) 
                  
                   (沖縄銀行)             (琉球銀行=改建中)
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「旧真和志村平野・銘苅の変容に驚愕!」~「私の履歴書」㊻

2020年12月04日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                         
 私が中高時代を過ごした那覇(当時の真和志村)の安謝隣はフェンスで囲まれた米軍族住宅地(マチナト)に隣接した平野、銘苅がありました。高校卒業後、安謝の自宅からこの平野、銘苅の草道を歩いて当時首里に在った琉球大に通学しました。この辺地の平野と銘苅が近隣の米軍住宅地域返還と共に、那覇新都心として再開発され、ここに自宅を建てた知人宅を案内された時、さながら”沖縄の池田山、高輪か”と見紛う高級華麗な住宅街に変容、圧倒されました。米軍基地建設、駐留を是とする訳ではありませんが、これも植民地、占領の一側面か?
 因みに、この那覇新都心に高給華麗な自宅を建設、案内頂いた私の知友人とはオリオンビール、QAB、㈱レキオスフォーマの会長、社長歴々でした。
 
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「南米に行った安謝中同期」~「私の履歴書」㊺

2020年12月03日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                                  
 小学6年から中学3年まで過ごした那覇の安謝で忘れられない二人の同級生。一人は小学6年の時、転校してきて中学2年の時南米に移住した田中将男君。彼が南米に移住すると聞いて、私は友人数人を集い、岡野の彼の自宅に送別会に行った記憶があります。二人目は安謝中卒業後、同じ那覇高校に行き、卒業後上京しブラジル大使館に勤務し、上北沢の私の下宿にも来られましたが、その後ご家族と共にご南米に行かれた金城久子さん。二人とも何故かヤンバル?から岡野に来られていました。金城さんご一家は一度南米から戻り、又渡られたようです。この頃、南米と沖縄を行き来きした沖縄移民の人々は結構いたようです。移民というより出稼ぎ気分で、お金を稼いだら又沖縄へ帰郷しようと思う人が結構いたようです。同期の二人はブラジル、ボリビヤ、ペール何処に行かれたのか、私が2008年WUB東京会長として「沖縄移民100周年」式典参加の為、ブラジルに行ったとき、現地の人々に二人の消息を聞いたのですが分からず(´Δ`;)
 今思うと、当時何故ヤンバル出身者が岡野に移住し、共に南米に行かれたのだろうか?その背景には金武、辺野古近隣地区への米軍基地建設による強制移住があったのだろうか?
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「伝説の奄美シマウタ歌手・朝崎郁恵さんとの出会い}~「私の履歴書」㊹

2020年12月02日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                                
 私が小学6年2学期まで住んでいた奄美大島・古仁屋の自宅向いの家に何時もシマウタを歌う中学生がいましたが、後で知るのですが何とこの方、度々NHKから流れる伝説の奄美民謡歌手・朝崎郁恵さんでした。
 それから60年後、偶然東京五反田の居酒屋「結まーる」でお会いし、古仁屋の思い出話をしたのですが、朝崎さんには五つ下の当時の私の記憶はないとのことは当然かも(´Δ`;)
 故郷・奄美ではしばしば「朝花」や「行ちゅんな加奈」等々のシマウタを聞きましたが、沖縄に来て「安里やユンタ」や「ヒヤミカチ」等々の軽快なリズムを聞き奄美との違いを感じました。
 シマウタや三味線には疎い私ですが、奄美には沖縄に少ない“返しバチ”サンシン演奏や裏声唄いがあり、“沖縄はラテン!奄美はブルース”と言うのを聞きました。これは自分が育て砂糖キビを齧っただけでも厳罰を受けた黒糖地獄と呼ばれる薩摩藩の長きに亘る圧制支配を受けた私達の祖先が被った悲痛、歎きの歌だったようです。奄美シマウタにも北のカサンブシ(笠利節)と東のヒギャシ(東節)があるようで、カサン節は平坦な地形を反映して穏やかなメロディに対し、南のヒギャ節は山谷の地形を反映して、起伏激しい嘆きの抑揚メロデイで、私と同じ加計呂麻出身の朝崎さんの裏声歌はヒギャ節そのものとのことです。

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朝吼夕嘆

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