”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「沖縄・大宜見村との出会」~「私の履歴書」㉞

2020年10月30日 | 「美ら島沖縄大使」便り

          
                               (宮城村長から親善大使再任委嘱状拝命~2018 ) 

          
        (伝説の芭蕉布名工・平良敏子さんと~2016年)
 
沖縄北部の大宜味村は県内随一の長寿、芭蕉布の里として有名ですが、私が小中学を過ごした沖縄安謝地区には奄美や宮古出身者が多く居住していましたが、隣接の岡野地域には何故か大宜味やヤンバル出身の宮城仁四郎や松岡政保等錚々たる著名人が移住していました。後に大宜味出身の友人により、村長を紹介され「大宜味村観光物産親善大使」を拝命しました。平成28年、那覇で開催された「沖縄県功労」受賞会場に村長が大宜味からわざわざご出席頂いたのは恐縮の極みでした。
 先に記載した小学クラスメート義明君のご尊父・宮城仁四郎祈念像を大宜味村に参拝した時には喜如嘉の人間国宝「芭蕉布の名工」の平良敏子さんをお訪ねし、95才とは思えないにこやかな笑顔が忘れられません。志喜屋湾眺望の山並みは故郷・加計呂麻に瓜二つで呆然でした。
 これ以外に
銀座の沖縄物産拠点「わしたショップ」オープンスッタフの栄養士さんが現在那覇の安里で経営しているカフェ「オレンジキッチン」には時に沖縄タイムス武富社長と会食に行きます。実はこの経営オーナー宮城光枝さんとは彼女の東京時代からの縁です。この方も大宜味出身!何と村長をはじめ、これら大宜味の皆さんは全て同じ宮城姓!ビックリしたのはこの宮城さんが経営するこの「オレンジキッチン」は私の中学2年の恩師・新川先生の愛娘スガちゃんの夫シャール(フランス出身)と経営していたフランス・レストランの継承店でした。大宜味がもたらすこうした偶然には驚き、至福でした。   

     
    (「オレンジキチン」での会食~右が経営オーナーの宮城光枝さん)

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「忘れ難い沖縄の同期級友」~「私の履歴書」㉝

2020年10月28日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                 
             (懐かしい安里小学の同期)

 傘寿を迎えた私の人生1割を沖縄で過ごしました。この小中高の8年の沖縄は最も思い出深く、知り合った多くの友人にお世話になりましたが、最も印象に残っているのは、宮城義明、屋良文雄、粟国安彦の3君です。奄美から転校入学した安里(後の安謝)小学6年の級長クラスで眩しく輝いていたのが宮城義明君でした。彼は沖縄の財界四天王と呼ばれ、製糖、パイン、セメント等々の県内基幹産業を立上げた宮城仁四郎の子息で、慶應大学卒後に㈱リュウエン商事を立上げ、沖縄に初のケンターキフライドチキン店を展開します。
 勢理客の彼の邸宅に呼ばれた時、最も驚いたのは自宅にあったピアノでした。終戦直後10年足らずのあの頃は学校にオルガンはあったもののピアノは滅多に見ることのない貴品でした。彼は安謝中1年?で東京杉並に移住、慶応大学に進み卒業しています。
 私達の高校卒業時は沖縄の学力、経済力では本土留学は難しく多くの進学志望者は先に書いた国費・自費を受験の本土留学でした。ところが、県内の富裕・優秀クラスの一部が中学時に東京に移住し、本土大学に進学していたのを後で知りました。当時東京で住宅を購入し、子息の生活の実現するのは余程の経済力だったと思います。彼だけでなく、東京に移住し、慶應や成蹊大に進んだ県出身者を何人かいました。最も代表的な事例は元㈱日産デーゼル社長の仲村巌さんで那覇の中学から東京に移住し、日比谷高校・東京大学に進んでいます。ただ、こうした経歴の友人から聞いたのは高校を県外で過ごした結果、県内の高校同友が無く、些か寂しいとのことでした。そう言えが東京に住む私も東京在住の那覇高校の同期、同窓とは定期的に貴重な交友が続けています。たまたま東京在住の宮城君の妹さんも同じ那覇同窓の誼です。                                      
                                           
                                         (大宜味村の宮城仁四郎像の前で~2016年訪問)

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「奄美から沖縄に来て感じた優しさ」~履歴書㉜

2020年10月26日 | 「美ら島沖縄大使」便り

       
           (招集された父)
 小学6年奄美から沖縄に来て、初めて知った “命(ヌチ)ど宝”を至上とする沖縄の相思相愛“ユイマール”精神でした。奄美の古仁屋小学で度々受けた喧嘩や苛めは沖縄の安謝小学校では皆無の優しさでした。その代わりとは言いませんが奄美で味わった猛烈な?競争精神は沖縄では余り感じない居心地の良さでした。その背景には、長く薩摩の支配下で影響を受けた奄美では“命を惜しむな、名こそ惜しめ”の❕三島由紀夫も絶賛した「葉隠」武士道の影響があったのでは?
 後で思うことはこの“命を惜しむな、名こそ惜しめ!”と祖国、名誉のため自爆・突撃と
自らの命を疎む武士道精神が他者の命を蔑み、アジア諸国侵略略奪、沖縄のひめゆり部隊、健児の塔、ちびりがま、果ては宮森小学校、コザ暴動等数々の惨劇を強いられたことが沖縄にこの”命どぅ宝”を本土に移動させられた琉球王朝最後の尚泰王の言葉としてフィクッション崇め、県民至上のフレーズとして定着したのでは!
 勿論、それに対してとは言いませんが、戦前、小学校卒業後、鹿児島45連隊に招集され帰還した父が“鹿児島45連隊と聞くだけで敵は敗走”に対し“またも負けたが大阪8連隊”と冗談交じりに言う当時日本軍隊で流行ったジョークを覚えています。これは“命を惜しまない薩摩部隊に対し、“命からがらすぐ逃げ惑う商人中心の大阪部隊“への揶揄でしが、この父の饒舌に薩摩の影響を受けた我が奄美の一面を感じました。
  自らの命を疎とする者は他の命をより蔑み、地理的条件を基に一方的に沖縄に核被害の危機を背負わす差別策を排除するため、本土では”基地を引き取る運動”が起きています”。と、こまで書くと”沖縄を去って本土に住むお前は何をしているの?と言われそう(´;ω;`)

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「ジャズピアニスト・屋良文雄の思い出」~「私の履歴書」

2020年10月23日 | 「美ら島沖縄大使」便り

        
 安謝中で忘れられない同期は後の沖縄ジャズ協会長を務め、ジャズピヤニスとして全国に名を発する屋良文雄と世界的オペラ演出家の藤原歌劇団の粟国安彦です。屋良君とはジャズ音楽、会社経営とお互い全く別世界ながら安謝小中、那覇高校同期ですが、法政・音楽(教育学部)と違うものの同じく琉大同級。何と屋良君と私は共に琉大中退です(^○^)彼は中高時代音楽以外にもバレークラブ選手等でスポーツも万能?で首里の自宅から那覇市久茂地で経営するジャズクラブ「寓話」へも毎朝、ジョギング通勤していました。何度かナハマラソンにエントリ競走しましたが、いつも後塵を浴びました。年1回の彼の東京公演には常に行きましたが「重田、ジャズ分からないのによく来るなあ!」と笑われました。ある時、酔って彼の「寓話」に行き“文雄!俺、歌うから伴走してくれ”と言うと、分かったといい「ポツポッポ!ハトポッポ!」と演奏し、“タツヤ!唄え”と言われ、満場大笑いでした。
 さはさりながら2008年、那覇のザ・ナハテラスホテルで開催された私の「おきなわ就活塾」出版パーティでのオープニング演奏を依頼したら快諾された時、ホテルの担当者から「え!屋良文雄さんが演奏するのですか!出演料御幾らですか?」と聞かれ、改めて彼のジャズ界での名声と我と我が身の音痴を自覚しました。これもあれも同期の誼です。
 惜しむらくも彼は70歳、前立腺癌で逝去しますが、入院治療中の病院に何度か見舞いに行き語り合いました。

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「幻の安謝中学」~「私の履歴書」

2020年10月23日 | 「美ら島沖縄大使」便り

         

 小学6年、奄美大島から沖縄に移住し、私が転校入学した安里小学校は間もなく安謝小学に校名が変わります。当時、那覇北端僻地の安謝は小中学併校で、1961年に中学が岡野に“安岡中”として校名変更し移動するまで9年間、当時那覇地区では珍しい“安謝小中学校”でした。校長も生徒会長も小中同一で、私が3年の時、生徒会長を務めた安謝中学は今は無き“幻の母校”です。安謝中同期は3クラス、全校でも400人にも満たない弱小学校で、私達は上野山、真和志、那覇中等々当時の那覇のエリート?中学への劣等感に苛まれました。当時の安謝中は“アジャパー中”と揶揄われることがありましたが、当時の岡野地区への移転に伴い安岡中に改名したのでは? 安謝中で忘れられない同期には後に「沖縄ジャズ協会」会長を務めるジャズピアニストの屋良文雄と「藤原歌劇団」のオペラ演出家の粟国安彦、中学2年担任の新川初子先生です。後で気付くのですが、共に小中高、琉大と唯一の同期生は屋良文雄君ですした。私は法政科、屋良君は教育科と専攻は別でしたが、何と共に中退の仲した(^-^*)。 

           
        (久茂地の「寓話」で生前の屋良君と!)






 

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「奄美と沖縄のカルチャー違いにビックリ」~「私の履歴書」㉛

2020年10月22日 | 「美ら島沖縄大使」便り

     
       (奄美から沖縄へ転校半年後の小学卒業写真~真中・校長先生後ろが私)
 
 小学6年2学期に奄美の古仁屋から沖縄に転校して、そのカルチャーの違いに驚きました。転校入学した沖縄の安里(後の安謝)小学6年のクラスメートに当然の事として「このクラスで喧嘩一番は誰?」と聞いた私の質問に「え!変な質問、そんなの誰か分からない」との回答にビックリしました。と言うのは古仁屋では成績と同様、重視されたのが喧嘩順位でその入れ替わり決定のために、時折決闘が行われました。この時程、沖縄の“ユイマール優しさ”と奄美・古仁屋の野蛮文化を痛感しました。その背景には奄美の“競争、優劣、出世、努力意識“と沖縄の”ノン競争、テーゲー、ユイマール精神“を感じました。もっとも、この価値観文化は奄美全体というより、古仁屋や徳之島のスットグレ(何糞)カルチャーでも感じました。後に奄美の日本復帰に伴い沖縄から追放される沖縄のヤクザ界を席捲した古仁屋出身のマジ兄(真島清)の存在もありました。

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「ビリの運動会(´Δ`;)~「私の履歴書」㉚

2020年10月20日 | 「美ら島沖縄大使」便り

         

 私は小学6年2学期まで奄美大島の古仁屋小学校に在学し、3学期から沖縄の安謝小学校に転校しました。古仁屋小学校1年の時の学芸会での全校代表での開会挨拶や2年での主役出演、3,4年の時の会計や級長を務めましたが毎年行われる運動会の走競争ではいつもビリから2、3番目でした。あの頃のグランドのラインは白線の路面標示ではなく、杭にロープが張られたラインでした。気が付けば私はロープの内側を走っていることに気付き、皆とは逆走し、見学応援の両親の爆失笑を覚えています。さほどに幼少の私の運動神経は最低で、毎年の運動会は嫌で嫌で、以来長きに亘り運動能力の低さと劣等感に悩まされていました。ところが、50歳のフルマラソン初完走で長く背負っていたスポーツ劣等感を克服出来たのが忘れられません。私のこのマラソン歴はまた、後程!

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「古仁屋小学校の思い出」~私の履歴書㉙

2020年10月18日 | 「美ら島沖縄大使」便り

             
               (大連幼稚園入園記念写真~6歳)
       この写真撮影の時”坊や首を左に左に”と何度も言われたの覚えています)

 満州から引き揚げた奄美大島での小学入学は今や廃校になった加計呂麻島の須子茂小学校でしたが、両親の転住に伴い1学期で奄美本島の古仁屋小学校に転校します。古仁屋小学1年の時、忘れられない記憶があります。それは小学1年の時に、学芸会で全校代表として挨拶させられたことです。我家の近くに住む後に校長先生になられる祈先生に「辰弥君!学芸会で開会の挨拶をしなさい!」言われました。当時の古仁屋小学校は1クラス40~50名前後、1学年松、竹、梅の3クラスの6学年の1000人近い全校生徒の前で開会の挨拶をさせられました。
 何で私が全校代表の挨拶を指名されたのか?今思うと、それは満州帰りの私は島訛りのない流暢な日本語を話し、都会的で垢抜けしていたのでは!奄美大島出身の両親の下で生まれた私が何故、そんなに垢抜けしていたのか? 私だけでなく、満州から引き揚げた島出身者が一様に垢抜けしていたようです。占領や殖民地支配を容認する訳ではありませんが、戦前の日本の“新官僚による満州国建設や台湾開発や近代化等世界史的に見ても“植民、租界地”のもたらす“、開発近代化”の歴史的影響、例えばヨーロッパ諸国の殖民だったインド、フィリッピン、東南アジア諸国の近代開発化度に瞥見できるのでは?台湾住民にも日本による近代化と開発促進を評価すると一面があります。日本の占領、開発下にあった哈爾濱、大連は中国で最も”近代化、垢抜け?”していたと言われたいます。決して、占領、植民地化を是とするのではありませんが、戦後アメリカ(国務省)による日本の農地解放、財閥解体等の民主化促進は占領、殖民地政策の一側面です。奄美大島ルーツ・大連帰りの私の当時の“垢抜け”?容姿もその側面ではとこの写真を見る度に思います。奄美に帰った私は日々、年々、劣化?田舎化していきます( ´艸`)

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「大連の思い出」~「私の履歴書」㉘

2020年10月16日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                             
                                               (後列右から3人目が父)
     
   日本の満州侵略に伴い、30万近い日本の農民が開拓民として満州に移住しましたが、ソ連参戦により日本が敗戦し、これらの移住民は日本に引き揚げます。しかし、ソ連国境に近い満蒙地域から大連や旅順という港町のある遼東半島への移動は至難で、途中それまで掠奪被害にあった現地中国人の報復やソ連軍による抑留、シベリア送還、家族殺戮、残留孤児等々これら満蒙移民の3分の2の悲惨な体験史を後程知りました。
 何故私達一家にこうした満蒙悲劇体験が無かったかというと、1945年の終戦時、私達は遼東半島港町の大連に住んでおり、父が“引揚隊長”を務める等の幸運がありました。
 終戦間近に招集され、シベリア抑留運送途中の列車から脱走?し、澤ビルアパートの自宅玄関に帰って来た父を見て狂喜した母の姿を覚えています。
父か帰還し引き上げるまで私達が住んでいた澤ビルに銃器を持ったソ連兵が来て捜索、家にあった空気銃を持ち去ったことや、しばしば現地人による澤ビルへの侵入、掠奪があり、対抗策として居住全家族が焼かんや鍋を全員でガンガンと打ち鳴らし、警告、排除したのを覚えています。
 満鉄系列会社の大連鉄道会社に勤めていた父は現地中国人との交流もあり、引き上げの時はそうした現地の友人達が送別の挨拶の来られたのも微かに覚えています。1990年、母を連れて妹とその懐かしの澤ビルを訪ねました。その澤ビルにお住いの中国家族が快く迎えられ、案内して頂いた応接が忘れられません。深々謝々!!

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「満州の思い出」~「私の履歴書」⑳

2020年10月07日 | 「私の履歴書」

    
               (大連広場)
 私は満州の哈爾濱で生まれ、7歳まで大連で育ちましたが、この二都市はロシアが設計し、日本が建設したと言われています。大連はダリーエンと言うロシア語に由来し、その中心街はエッフェル塔を中心とするパリ―を模写しそっくりです。当時の哈爾濱には白系ロシア人が多く移住し、私達の哈爾濱の大家さんもロシア人で私が生まれた時も“ハラショウ!シンパチュナー、スパシナ!”(コンニチハ!カワイイ)等々と可愛がってくれたと母が言っていました。
 大連で私達が御付合いのあった中国女性の多くは背が高く色白で、後に私が北京や福建省でお会いした中国人とは違った印象があります。今思うと大連は漢族ではなく清族で、親日的要素があります。中国に進出した多くの日系IT企業が大連の親日性を言います。20年前、傘寿を迎えた母を連れてかって暮らした大連の澤ビルを訪ねた時もお住まいの中国人に暖かく迎えられました。
  勿論、旧日本軍による満豪侵略、占領、「五族協和、王道楽土」を是とする訳ではありませんが、この満州は戦前の"新官僚"による満州開拓結果の一側面を感じます

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「満州で生まれ、奄美へ」~「私の履歴書」㉖

2020年10月06日 | 「美ら島沖縄大使」便り

      
        (満州・ハルピンでの2歳誕生祝い?)
 私は満州・哈爾濱で生まれ、生後間もなく大連に移ります。7歳の時、大勢の仲間に囲まれ大連広場で行われた幼稚園の入園式では不安になり、グランドスタンドで眺める両親の姿を見て泣き出したnのを覚えています。生まれて初めての集団行動に不安が募ったのだと思います。
 入園式の後,間もなく終戦となり、私達は大連から佐世保港に渡り、そこから奄美大島に引き揚げて来ました。後で知るのですが満豪引き上げの開拓民は残留孤児等様々な悲劇に合ったようですが、私達が住んでいた大連は遼東半島南端の港町で、父が引揚隊長を務める等の条件があったのか多くの満豪移民引き上げ者が経験した辛い体験がありません。リックサックを背負い住んでいた澤ビルを出る時は遠足出発のような浮かれた記憶があります。大連から乗った病院船は何泊だったかは覚えていませんが、船上デッキで毎日乗員の看護婦お姉さんから”坊や、坊や!”と可愛いがわれたのが忘れらません。佐世保から奄美名瀬港に換え、古仁屋に着き、加計呂麻島の木慈?から両親故郷の須子茂に向かう山道が辛く泣き出し、叔父さんに負んぶされたのを覚えています。
 小学入学は今や廃校になった奄美大島・加計呂麻の須子茂小学校でしたが、両親の転住に伴い1学期で古仁屋小学校に転校します。古仁屋小学1年の時、懐かしい思い出があります。

 

 

 

 何で

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「オオシマ・ヤマト文化発信の我家」~「私履歴書」㉕

2020年10月05日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                                              
  私が中学3年?の時、私達の住んでいた真和志村安謝は合併し、那覇市になります。我家は安謝小中学正門の右隣2軒目にありましたが、後に琉大を卒業し、安謝小の校長に就任し、毎日我が家の前を通り登校した那覇高校同期女性から“重田さんのお宅、変わっていましたね!”と言われたことがあります。彼女だけでなく、幼少から琉舞を習い、後に琉舞の第二代渡嘉敷守良を襲名する安謝小中5期後輩、地元育ちの花城勝子師匠も同じような印象を語たられました。

大した洒落た住宅ではない平屋の我家が周りに何でそんな印象を与えたのか。それは我家の道路際の2間正面はガラス戸があり、その奥の廊下越しに障子が見えたようです。亜熱帯の沖縄ではガラス戸や障子文化はなく、夏にはしばしば開けぱなしの家があり、当時の我家のそんな風景は珍しかったようです。また、毎朝、家の周りを掃除する母の姿を“へー!”と眺める近所の人がいました。
 最も印象に残っているのは正月の餅つきでした。我家では毎年、正月に庭で餅つきをしていましたが、沖縄には餅つきの習慣がなく、毎年、近所の人が臼や杵を珍しそうに見学に来ていました。私も自宅で餅つきをした記憶がありますが、父はあの臼・杵をどこから入手したのだろうか?
 父は在沖瀬戸内会長を務め、我が家にしばしば郷友会メンバー集い新年会、忘年会、時に安謝小学グランドで運動会等をしました。私達は左程の意識はなかったのですが、当時の我家は周辺にオオシマ・ヤマト文化を発信し、珍しがられていたことを後で知りました。
 

 

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「当時の安謝地域の特異」の思い出~「私の履歴書」㉔

2020年10月02日 | 「美ら島沖縄大使」便り

    
        (埋めたてられる前の安謝港=現在は港町)
 私は安謝中3年の時に生徒会長に任命されますが、後に「重田!あの怖い安謝の生徒会長だったの?」と言われ驚いたことがあります。自分が住んでいた時は感じなかったのですが外部からは“安謝は暴力の怖い町”という印象一面があったのを後で知りました。そう言えば我家の近くにも奄美出身のお兄さん達が集う家があり、時に叫喚、取っ組み合うのを見た記憶があります。
 この頃、沖縄では米軍基地で働くアメリカ、フィリッピン、ナイチャーが憧れの富裕順序で、基地で働く沖縄女性達がこの出身男性のハニーになったり、結婚する例が結構ありました。我家の隣にもフィリッピン男性と同居し、華やかな洋服を装い贅沢な暮らしをしていました。こうして米軍基地のアメリカ人やフリッピン人と結婚し、アメリカやフリッピンに渡った近隣の女性達がいましたが、アメリカに渡航した人はともかく、フリッピンに行った沖縄女性達はその後、どうしておられるだろうか!
 安謝には奄美、宮古島の島々から移住民が多く住み、港近隣には居酒屋、旅館、映画館があり、港湾労働の沖中仕が集い、しばしば衝突、トラブルを起こし、“暴力の町”のイメージがあったことを後で知りました。これは奄美史上有名な親分「マジ兄」を生んだ奄美港町の古仁屋や山口組発祥の地、神戸尼崎等港湾労働者が集う港町特有の要素だったようです。
 そうした歴史を持ちながら、今は安謝は那覇新都心郊外・生粋の住宅街として栄えています。

 

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「消えた安謝学区」~「私の履歴書」㉓

2020年10月01日 | 「美ら島沖縄大使」便り

    
 
      (安謝小学・右に向かう道路・1号線下の安謝トンネル)
 
        (安謝中学1年~比嘉先生を囲んで・先生の下が私
 私が在学した安謝小中学の学区は安謝を中心とする住吉、天久、岡野、銘苅、平野地区でした。印象深いのは安謝南の安謝川の間にある道も狭く自転車で昇るのは難しい丘陵地区で、その名前も文字通り“岡野“でした。不思議なことにこの岡野と近隣の勢理客には琉球政府行政主席を務め、建設会社や電力会社(後の沖縄電力)創業の松岡政保氏や近接の勢理客には琉球セメント、糖業、パイン、煙草、セメント業など数々の県内製造業を起こした宮城仁四郎等々の県内巨頭が住んでいました。因みに松岡は国頭郡金武町、宮城仁四郎は大宜味といずれもヤンバル出身でした。戦後、何でヤンバル出身者の多くがこの岡野や勢理客地域に移住したのだろうか?沖縄地名らしくないこの「岡野」名称には諸説があり、戦前は余り人の住まない木草過疎のこの地を開発移住した松岡政保が名付けたのでは?因みに松岡は宜野座からの改名。私達の安謝小中時代は“岡野出身”というと何と無くエリート集団の匂いがありました。この岡野に隣接する平地方は対照的に平野の地名です。もう一つの住吉ですが、ここは米軍接収で移住させられた小禄、垣花地方の人が住んでいました。これも戦後“住み吉し町!”として移住させられたのでは?いずれにしろ、この岡野、平野、住吉は安謝、勢理客、銘苅、天久等の沖縄名称に比べ違和感あります。この岡野、平野、住吉は現在の県内地図には微かに残る“消された地名”か(´Δ`;)

 私の記述に間違いがあれば、忌憚なくご指摘下さい。

 

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朝吼夕嘆

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