”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「我が故郷・加計呂麻の実久・鎭西村伝説」

2020年11月27日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                                   
 6歳の頃、私が満州から引き揚げた奄美の加計呂麻島の左半分は実久村、右は鎭西村と呼んでいました。それは平清盛に追放された源為朝が奄美に渡り、奄美の娘との間に生まれた子供が実久村「実久」の実久三次郎神社として祭られているようです。為朝は後に「鎮西八郎為朝」と称し大島から脱出して琉球に渡り、琉球王朝の先祖になった等々の伝説がありますが、これが加計呂麻島の実久村・鎭西村の名称になったのか?それにしても全国津々浦々にこうした源平のフィクションがあるのだろうか?

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「裁監督との出会い」~「私の履歴書」㊶

2020年11月25日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                                 
   沖縄の高校野球を何度も甲子園に出場させた様々毀誉褒貶の伝説の裁監督は65才で逝去しますが、生前会食した思い出があります。私より一つ若い彼は糸満生まれながらルーツは奄美と言ってました。そいえば琉大卒業後、那覇市松山で“夜の商工会議所”と呼ばれるクラブを経営、後にベンチャービジネスを立上げ、日経ビジネスウーマンイヤーズ賞を受賞した奥キヌ子さんも糸満生まれながらルーツは奄美とのこと!。こうした糸満と奄美はの縁はカツオ漁業の繋がりでは?

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「伊良部・佐良浜美人との出会い」~「私の履歴書」㊵

2020年11月23日 | 「美ら島沖縄大使」便り

         
 会社経営現役の頃、顧客接待でしばしば通う赤坂見附のスナックで見事なピアノ演奏歌唱の女性に会い、沖縄出身と聞き、え!と驚きました。高校卒業後、東京の音大に進学、バイトしているとのこと。モデルを思わすスラットした華麗な容姿はどう見ても沖縄出身( ´艸`)には見えなかったのですが、何と宮古島は伊良部・佐良浜出身とのことでした。彼女一族は宮古、沖縄と一定の距離を保ち、県人会等の集いには滅多に参加しないとのこと。今、横浜でピアノ弾き語りのスナックを経営しているようです。
 実は仲間由紀恵や国仲涼子等沖縄出身の何人かのタレントのルーツが同じ伊良部・佐良浜で、それはかって遭難ドイツ船員が佐良浜に長期滞在したのが出自というのを聞き、調べたところこれは今から150年前の10人近いドイツ人船員の1月近い滞在史実がありますが、これは佐良間美人の由来としてはフィクッション伝説と思いました。でも、何故この島を祖先とする美人が多いのだろうか? 
                                
               (伊良部・佐良浜がルーツと言われる代表タレント)

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「今帰仁・北山ナイチャー!」~「私の履歴書」㊴

2020年11月21日 | 「美ら島沖縄大使」便り

             

       (東京で会った今帰仁・北山出身のカーギ女性)

 前回、“イトマンウランダ”(糸満オランダ)というフレーズを紹介しましたが、これとは別に“今帰仁・北山ナイチャー”と言うジョーク・フレーズも聞きました。これは今帰仁・北山にはナイチャー(内地=大和)風の容貌が多いという意味らしいのです。後に私は新宿・歌舞伎町で今帰仁・北山出身の何人かの女性に会い、私が幼少を過ごした大連で会った色白、背高い女性や垢抜けした北朝鮮女性色写のその容姿に魅せられました。まるで”秋田美人!東シナ海に面するこの今帰仁、北山港はその昔、済州島、朝鮮半島、清と交流があったのでは??これは根拠の無い私の妄想、今帰仁・北山の皆さん!ゴメンナサイ!

 

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「初めての糸満訪問」~「私の履歴書」㊳

2020年11月20日 | 「美ら島沖縄大使」便り

               (東京で会った糸満女性)
 奄美から沖縄に移住した父が糸満と奄美海産物取引があり、その縁で初めて糸満を訪ねた時、小柄色黒ながら目のくっきりした糸満の女性に会いそのカーギ(美貌)に打たれました。後に“イトマンウランダー”というフレーズを知りました。この“糸満オランダ―”の意味は“糸満は外人風”というのを知りました。外洋漁場盛んな糸満は海外との交流が盛んだったという意味か?後に東京で糸満出身の女性とお会いましたが、皆さん文字通りのチュラカーギ―でした( ´艸`) 
 那覇の松山で会った糸満出身のママから“小さい頃、旭橋、真玉橋は渡るな!と言われたと聞きました。禁断の旭橋、真玉橋渡り那覇に行けば二度と故郷・糸満に帰れない!”という意味で、これは那覇の辻や仲島で働く糸満の女性は、遂に故郷に帰りたくても帰れない悲しい伝えから作られたフレーズを知りました。

 

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「奄美で見た沖縄」~「私の履歴書」㊲

2020年11月17日 | 「美ら島沖縄大使」便り

        
             (糸満の漁業)
 私が在校した奄美の古仁屋小学校に大城君や金城(カナシロ)君という同級生がいました。彼らは共に大島生まれでしたが、両親は沖縄出身の「クダカ」でした。古仁屋で「クダカ」というのは漁師のことで、古仁屋にいた沖縄出身者の殆どはクダカでした。後に沖縄に行き金城(カナシロ)は金城(キンジョウ)と呼び、さらに神の島“久高島”があることを知りました。奄美の漁業は沖縄の久高島や糸満出身の漁師から取得したのでは?
 古仁屋小学校でも悪さやヤンチャを続けている男の子は“糸満に売られるよ!(糸満売り)”女性は“辻に売られるよ!”と冗談半分に言われていました。糸満に売られた子は海に放り投げられ、潜水漁業を鍛えられたと言います。
 後に「松の下」「左馬」「那覇」等伝説の料亭が立ち並ぶ那覇市辻町を界隈し、琉球文化の華麗さに圧倒されました。
          
               (古仁屋漁港)

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「沖縄・大和の架け橋・奄美!」~「私の履歴書」㊱

2020年11月11日 | 「私の履歴書」

                                           
               (琉舞・諸鈍)

 奄美から沖縄に来て双方のカルチャの違いを感ずる一方、融合や架け橋を感じました。それは沖縄で琉舞古典七踊の筆頭に掲げられる「諸鈍」舞踊を見ての確認でした。と言うのは、諸鈍とは私の故郷奄美・加計呂麻島にある集落で、ここに源平の戦いに敗れた平資盛が移住し、土地の人々との交流を広めるため教えた舞踊が“諸鈍シバヤ”として定着したという伝説です。以後、島の人に継承され「国指定重要無形民俗文化財」に指定され、住民の過疎化を圧して毎年催されています。何故この集団男踊りの“諸鈍シバヤ”と女一人踊りの琉舞“諸鈍”があるのか?
 東シナ海と太平洋に面する”諸鈍長浜”と呼ばれる流麗なこの港には琉球王朝のマーラン船が度々寄港し、交流があったようで“諸鈍みやらび,カーギーのチュラサ”という
琉球古歌もあるようです。この諸鈍村は沖縄と奄美を繋ぐ拠点だったのか?
 私の高校同期の琉舞師匠に「奄美の加計呂麻に諸鈍という村があるよ!」と言ったら“えー?”と驚いていました。一方、諸鈍出身の同級生に“諸鈍という琉球古典舞踊があるよ!”と言いたら“へ!”と。いずれにしろ、沖縄と大和の架け橋の一面を我が故郷奄美を感じました。  
     
             (奄美・諸鈍シバヤ)

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「沖縄に来て驚いた名前・地名の違い」~「私の履歴書」㉟

2020年11月03日 | 「美ら島沖縄大使」便り

    

 私が入学した奄美の古仁屋小学校1年の先生は祈(いのり),2年は林(はやし),3年は森(もり),4年は藤(ふじ)と皆一字の姓でした。奄美出身の歌手の元(はじめ)ちとせ城(きづき)南海中(あたり)孝介がいるのでこれらの名前は読めると思いますが、皆さん!奄美の姓「文」「英」読めるでしょうか?”ふみ,えい”はなく(カザリ),(ハナブサ)と読みます。何故、これほどに奄美に一字姓があるのか?これは薩摩藩の強制でした。
 沖縄に来て眞栄田、真栄城、玻名城、 山入端、 我如古、 饒平名、 喜屋武、 仲村渠等々の3苗字,中でも 大工廻(だくじゃく),健堅(きんきん),為又(びいまた),保栄茂(びん)等々の難読の地名を見て、奄美との違いの大きさには驚きました。これらの地名読み方の由来には諸説がありますが、中でも興味深いのは沖縄に来航した中国人の誤読説です。
 薩摩藩の奄美への一苗字強制は韓支配の偽装では?沖縄のへの3字強制があったとしたら、それは沖縄を具とする対清貿易の柄だったのでは?もちろん、これは私の妄想です!
                                              

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「沖縄・大宜見村との出会」~「私の履歴書」㉞

2020年10月30日 | 「美ら島沖縄大使」便り

           
                               (宮城村長から親善大使再任委嘱状拝命~2018 ) 

          
        (伝説の芭蕉布名工・平良敏子さんと~2016年)
 
 沖縄北部の大宜味村は県内随一の長寿、芭蕉布の里として有名ですが、私が小中学を過ごした沖縄安謝地区には奄美や宮古出身者が多く居住していましたが、隣接の岡野地域には何故か大宜味やヤンバル出身の宮城仁四郎や松岡政保等錚々たる著名人が移住していました。後に大宜味出身の友人により、村長を紹介され「大宜味村観光物産親善大使」を拝命しました。平成28年、那覇で開催された「沖縄県功労」受賞会場に村長が大宜味からわざわざご出席頂いたのは恐縮の極みでした。
 先に記載した小学クラスメート義明君のご尊父・宮城仁四郎祈念像を大宜味村に参拝した時には喜如嘉の人間国宝「芭蕉布の名工」の平良敏子さんをお訪ねし、95才とは思えないにこやかな笑顔が忘れられません。大宜味湾眺望の山並みは故郷・加計呂麻に瓜二つで呆然でした。
 これ以外に
銀座の沖縄物産拠点「わしたショップ」オープンスッタフの栄養士さんが現在那覇の安里で経営しているカフェ「オレンジキッチン」には時に沖縄タイムス武富社長と会食に行きます。実はこの経営オーナー宮城光枝さんとは彼女の東京時代からの縁です。この方も大宜味出身!何と村長をはじめ、これら大宜味の皆さんは全て同じ宮城姓!ビックリしたのはこの宮城さんが経営するこの「オレンジキッチン」は私の中学2年の恩師・新川先生の愛娘スガちゃんの夫シャール(フランス出身)と経営していたフランス・レストランの継承店でした。大宜味がもたらすこうした偶然には驚き、至福でした。   

     
    (「オレンジキチン」での会食~右が経営オーナーの宮城光枝さん)

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「忘れ難い沖縄の同期級友」~「私の履歴書」㉝

2020年10月28日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                 
             (懐かしい安里小学の同期)

 傘寿を迎えた私の人生1割を沖縄で過ごしました。この小中高の8年の沖縄は最も思い出深く、知り合った多くの友人にお世話になりましたが、最も印象に残っているのは、宮城義明、屋良文雄、粟国安彦の3君です。奄美から転校入学した安里(後の安謝)小学6年の級長クラスで眩しく輝いていたのが宮城義明君でした。彼は沖縄の財界四天王と呼ばれ、製糖、パイン、セメント等々の県内基幹産業を立上げた宮城仁四郎の子息で、慶應大学卒後に㈱リュウエン商事を立上げ、沖縄に初のケンターキフライドチキン店を展開します。
 勢理客の彼の邸宅に呼ばれた時、最も驚いたのは自宅にあったピアノでした。終戦直後10年足らずのあの頃は学校にオルガンはあったもののピアノは滅多に見ることのない貴品でした。彼は安謝中1年?で東京杉並に移住、慶応大学に進み卒業しています。
 私達の高校卒業時は沖縄の学力、経済力では本土留学は難しく多くの進学志望者は先に書いた国費・自費を受験の本土留学でした。ところが、県内の富裕・優秀クラスの一部が中学時に東京に移住し、本土大学に進学していたのを後で知りました。当時東京で住宅を購入し、子息の生活の実現するのは余程の経済力だったと思います。彼だけでなく、東京に移住し、慶應や成蹊大に進んだ県出身者を何人かいました。最も代表的な事例は元㈱日産デーゼル社長の仲村巌さんで那覇の中学から東京に移住し、日比谷高校・東京大学に進んでいます。ただ、こうした経歴の友人から聞いたのは高校を県外で過ごした結果、県内の高校同友が無く、些か寂しいとのことでした。そう言えが東京に住む私も東京在住の那覇高校の同期、同窓とは定期的に貴重な交友が続けています。たまたま東京在住の宮城君の妹さんも同じ那覇同窓の誼です。                                      
                                           
                                         (大宜味村の宮城仁四郎像の前で~2016年訪問)

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「奄美から沖縄に来て感じた優しさ」~履歴書㉜

2020年10月26日 | 「美ら島沖縄大使」便り

       
           (招集された父)
 小学6年奄美から沖縄に来て、初めて知った “命(ヌチ)ど宝”を至上とする沖縄の相思相愛“ユイマール”精神でした。奄美の古仁屋小学で度々受けた喧嘩や苛めは沖縄の安謝小学校では皆無の優しさでした。その代わりとは言いませんが奄美で味わった猛烈な?競争精神は沖縄では余り感じない居心地の良さでした。その背景には、長く薩摩の支配下で影響を受けた奄美では“命を惜しむな、名こそ惜しめ”の❕三島由紀夫も絶賛した「葉隠」武士道の影響があったのでは?
 後で思うことはこの“命を惜しむな、名こそ惜しめ!”と祖国、名誉のため自爆・突撃と
自らの命を疎む武士道精神が他者の命を蔑み、アジア諸国侵略略奪、沖縄のひめゆり部隊、健児の塔、ちびりがま、果ては宮森小学校、コザ暴動等数々の惨劇を強いられたことが沖縄にこの”命どぅ宝”を本土に移動させられた琉球王朝最後の尚泰王の言葉としてフィクッション崇め、県民至上のフレーズとして定着したのでは!
 勿論、それに対してとは言いませんが、戦前、小学校卒業後、鹿児島45連隊に招集され帰還した父が“鹿児島45連隊と聞くだけで敵は敗走”に対し“またも負けたが大阪8連隊”と冗談交じりに言う当時日本軍隊で流行ったジョークを覚えています。これは“命を惜しまない薩摩部隊に対し、“命からがらすぐ逃げ惑う商人中心の大阪部隊“への揶揄でしが、この父の饒舌に薩摩の影響を受けた我が奄美の一面を感じました。
  自らの命を疎とする者は他の命をより蔑み、地理的条件を基に一方的に沖縄に核被害の危機を背負わす差別策を排除するため、本土では”基地を引き取る運動”が起きています”。と、こまで書くと”沖縄を去って本土に住むお前は何をしているの?と言われそう(´;ω;`)

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「奄美と沖縄のカルチャー違いにビックリ」~「私の履歴書」㉛

2020年10月22日 | 「美ら島沖縄大使」便り

     
       (奄美から沖縄へ転校半年後の小学卒業写真~真中・校長先生後ろが私)
 
 小学6年2学期に奄美の古仁屋から沖縄に転校して、そのカルチャーの違いに驚きました。転校入学した沖縄の安里(後の安謝)小学6年のクラスメートに当然の事として「このクラスで喧嘩一番は誰?」と聞いた私の質問に「え!変な質問、そんなの誰か分からない」との回答にビックリしました。と言うのは古仁屋では成績と同様、重視されたのが喧嘩順位でその入れ替わり決定のために、時折決闘が行われました。この時程、沖縄の“ユイマール優しさ”と奄美・古仁屋の野蛮文化を痛感しました。その背景には奄美の“競争、優劣、出世、努力意識“と沖縄の”ノン競争、テーゲー、ユイマール精神“を感じました。もっとも、この価値観文化は奄美全体というより、古仁屋や徳之島のスットグレ(何糞)カルチャーでも感じました。後に奄美の日本復帰に伴い沖縄から追放される沖縄のヤクザ界を席捲した古仁屋出身のマジ兄(真島清)の存在もありました。

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「ビリの運動会(´Δ`;)~「私の履歴書」㉚

2020年10月20日 | 「美ら島沖縄大使」便り

         

 私は小学6年2学期まで奄美大島の古仁屋小学校に在学し、3学期から沖縄の安謝小学校に転校しました。古仁屋小学校1年の時の学芸会での全校代表での開会挨拶や2年での主役出演、3,4年の時の会計や級長を務めましたが毎年行われる運動会の走競争ではいつもビリから2、3番目でした。あの頃のグランドのラインは白線の路面標示ではなく、杭にロープが張られたラインでした。気が付けば私はロープの内側を走っていることに気付き、皆とは逆走し、見学応援の両親の爆失笑を覚えています。さほどに幼少の私の運動神経は最低で、毎年の運動会は嫌で嫌で、以来長きに亘り運動能力の低さと劣等感に悩まされていました。ところが、50歳のフルマラソン初完走で長く背負っていたスポーツ劣等感を克服出来たのが忘れられません。私のこのマラソン歴はまた、後程!

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「古仁屋小学校の思い出」~私の履歴書㉙

2020年10月18日 | 「美ら島沖縄大使」便り

             
               (大連幼稚園入園記念写真~6歳)
       この写真撮影の時”坊や首を左に左に”と何度も言われたの覚えています)

 満州から引き揚げた奄美大島での小学入学は今や廃校になった加計呂麻島の須子茂小学校でしたが、両親の転住に伴い1学期で奄美本島の古仁屋小学校に転校します。古仁屋小学1年の時、忘れられない記憶があります。それは小学1年の時に、学芸会で全校代表として挨拶させられたことです。我家の近くに住む後に校長先生になられる祈先生に「辰弥君!学芸会で開会の挨拶をしなさい!」言われました。当時の古仁屋小学校は1クラス40~50名前後、1学年松、竹、梅の3クラスの6学年の1000人近い全校生徒の前で開会の挨拶をさせられました。
 何で私が全校代表の挨拶を指名されたのか?今思うと、それは満州帰りの私は島訛りのない流暢な日本語を話し、都会的で垢抜けしていたのでは!奄美大島出身の両親の下で生まれた私が何故、そんなに垢抜けしていたのか? 私だけでなく、満州から引き揚げた島出身者が一様に垢抜けしていたようです。占領や殖民地支配を容認する訳ではありませんが、戦前の日本の“新官僚による満州国建設や台湾開発や近代化等世界史的に見ても“植民、租界地”のもたらす“、開発近代化”の歴史的影響、例えばヨーロッパ諸国の殖民だったインド、フィリッピン、東南アジア諸国の近代開発化度に瞥見できるのでは?台湾住民にも日本による近代化と開発促進を評価すると一面があります。日本の占領、開発下にあった哈爾濱、大連は中国で最も”近代化、垢抜け?”していたと言われたいます。決して、占領、植民地化を是とするのではありませんが、戦後アメリカ(国務省)による日本の農地解放、財閥解体等の民主化促進は占領、殖民地政策の一側面です。奄美大島ルーツ・大連帰りの私の当時の“垢抜け”?容姿もその側面ではとこの写真を見る度に思います。奄美に帰った私は日々、年々、劣化?田舎化していきます( ´艸`)

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「大連の思い出」~「私の履歴書」㉘

2020年10月16日 | 「美ら島沖縄大使」便り

                             
                                               (後列右から3人目が父)
     
   日本の満州侵略に伴い、30万近い日本の農民が開拓民として満州に移住しましたが、ソ連参戦により日本が敗戦し、これらの移住民は日本に引き揚げます。しかし、ソ連国境に近い満蒙地域から大連や旅順という港町のある遼東半島への移動は至難で、途中それまで掠奪被害にあった現地中国人の報復やソ連軍による抑留、シベリア送還、家族殺戮、残留孤児等々これら満蒙移民の3分の2の悲惨な体験史を後程知りました。
 何故私達一家にこうした満蒙悲劇体験が無かったかというと、1945年の終戦時、私達は遼東半島港町の大連に住んでおり、父が“引揚隊長”を務める等の幸運がありました。
 終戦間近に招集され、シベリア抑留運送途中の列車から脱走?し、澤ビルアパートの自宅玄関に帰って来た父を見て狂喜した母の姿を覚えています。
父か帰還し引き上げるまで私達が住んでいた澤ビルに銃器を持ったソ連兵が来て捜索、家にあった空気銃を持ち去ったことや、しばしば現地人による澤ビルへの侵入、掠奪があり、対抗策として居住全家族が焼かんや鍋を全員でガンガンと打ち鳴らし、警告、排除したのを覚えています。
 満鉄系列会社の大連鉄道会社に勤めていた父は現地中国人との交流もあり、引き上げの時はそうした現地の友人達が送別の挨拶の来られたのも微かに覚えています。1990年、母を連れて妹とその懐かしの澤ビルを訪ねました。その澤ビルにお住いの中国家族が快く迎えられ、案内して頂いた応接が忘れられません。深々謝々!!

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朝吼夕嘆

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