会社を退任したタイミングに直腸癌が見つかり手術、永久ストーマになったのを契機に74歳の生涯を振り返り、あれこれ“終活”と小中高時代の日記等の発見、整理の末に大学時代のクラス雑誌「蛙鳴」4冊が見つかり、ページを捲っている内にいろいろ思い出しました。
そもそもこのクラス雑誌の発刊契機は、西洋史専攻の1期先輩の歓迎集いの時に「我々もクラス雑誌を発行しているが、君達も作ったら!」という提言だったと思います。
では、誰が編集するのかと級友間で議論したのですが、「クラス委員」を拝命していたためか編集、会計チームを手伝うことになりました。発行は4年間に4冊ですが1年時に2冊、2年時に1冊、何故か3年時には発行せず、4年時に卒業を記念にと合計4冊になりました。4冊の累計執筆者は74名。50名を超えるクラスメンバーから計算すると4名に1人の執筆となります。
私の投稿は「入学この方」「夏休みまで」「クラス雑誌を考える」「山田宗睦・危険な思想家所感」と4冊へ4文。読み返すと“面映い”反面、“へ!こんなこと書いたのか!”と。
大学1年時の1962年頃は手近にワープロは未だ無く、皆で第一文学部一階のレストランで謄写版に鉄筆で原稿を書きました。 流石にこの最後の4年版はプロのタイピストに頼みましたが、執筆者からの掲載料がなかなか集まらず印刷会社への支払に難渋し、4年次最終版に添付のような「編集後記」記述がありました。(^○^) この最終四年版のタイトル文字と表紙、一文校舎を模して 書いた記憶があります。蛇足ながら、この作業中、傍を通った当時二文に入学した吉永小百合さんの姿を覚えています。
この「蛙鳴」書名はクラスメイトの浅川さんがを提案したのに対し、西洋史先輩が“蛙鳴蝉噪"ネーミング、自虐的でよくない!”と忠言されたのですが、浅川提案を押し切ったのを覚えています。
(4年生最終号の編集後書き(>_<;)・゜゜・)