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”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「全体会」~当社の社員懇談会

2008年11月30日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 創業以来当社では毎月、最後の金曜のアフターファイブ(正確には7時ですが)に全体会と称する社員懇談会を開催しています。出席は任意、残業料は付かない代わりに社内ビールパーティ。以前は全事業所で毎月実施していましたが、最近は隔月開催。当初、社外勤務社員と本社勤務者との交流以外に私の意向を伝えるのが主たる目的でした。創業当初は毎回100%近い出席率でしたが、出席任意ということもあり、組織の拡大と時を経るに従い低下して来ました。
 周期的に制度の廃止、中止の論議が起こりますが、その都度意義を見直し、位置付けられました。最近は社員の持回り自主企画、開催に移って来ました。社員の企画力、プレジェンテーション力養成の場でもあります。
 創業以来趣旨換えしつつ、各事業所で継続、開催されているこの全体会は当社の変わることの無いCultureの一つです。
 先週は沖縄事業所とテレビ会議で結び、専務によるわが社のクレド説明がテーマでした。
 

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「沖縄クラブ」08年“望年会”

2008年11月29日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 暮れ間近の11月29日土曜、お馴染の霞ヶ関ビルの「東海大学校友会館」で「沖縄クラブ」(川平朝静名誉会長)今年最後の例会“望年会“に出席。
以前も書きましたが「沖縄クラブ」は私の知る限り在京沖縄関係団体中、継続最長、会員中私が若い方に属する等諸団体中、メンバーの平均最高齢の組織ではないか。さらにもう一つ、構成員が元大学教授、高級官僚、企業幹部等インテリ層?が多いことが特色か。その証拠に毎回の講演が歴史、アカデミックなテーマーが多く、講演後の質疑応答も盛んでまるで学術会議、乃至はゼミ風。
 今回は柳田賞受賞の小島櫻禮琉球大名誉教授による「琉球諸島の律令時代」講演受講。出席者は30名弱。講演内容は「続日本書紀」等に残された記述から律令時代の大和朝廷と琉球の関係を説かれた。中でも鑑真和尚の訪日渡航記「唐大和東征伝」記中の「阿児奈波嶋」は沖縄ではないかと指摘されたのは特に興味深かった。73歳の小島先生の講演、文献に基づく実証解説、その口調鮮やかでいささかも澱みなく明快、失礼ながら年を感じさせない。
 神奈川出身、国学院大卒の小島先生が何故、琉大教授と思ったら、大学時代知り合った奥様が沖縄ご出身のご縁とのことでした。
 講演会後は文字通り“望年会”。宴たけなわ、80歳を超す川平会長、オハコのウチナー口・第九の詠唱!満座ヤンヤの喝采を浴びました。
               
                    (川平会長、オハコの第九?を唄う!)
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「久しぶりの静岡事業所」

2008年11月27日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 当事業所は創業7年目の1984年、創業以来の主要取引先の富士通さんの沼津展開と共に開設。今年で24年目、大阪事業所に次ぐ履歴を持ちます。爾来、富士通沼津工場、東芝機械関連会社他、地元新興のテレビ視聴機器メーカー等の優良・プライム顧客を持ち、東京本社や沖縄事業部にも仕事を発注する一方、売上げ、利益率共にわが社NO1、BEST PRACUTESとして、いまや全社の牽引事業部。
 当事業所はそれ以外にオフィス移転4回と全5事業所中、最多移転回数歴があります。実は創業時この事業部は沖縄出身者が50%を占める等、その意味で沖縄県にお世話になっている。現在も従業員中、5名が沖縄出身。後は地元自宅通勤者。また、中途キャリア採用とその定着、貢献度でも全事業所中NO1の成功率を誇っています。
 薩川事業所長・執行役員は当社大卒4期・地元出身採用のプロパー。但し、当社創業31年の間、先頭ランナーとして全社を牽引して来た事業部門は常に市場動向の変遷に応じ、交代、回転して来ました。その観点から当事業部も慢心することなく、常に変化する需要動向、技術革新をウォッチ、対応する必要があります。
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「愚者の体験談」

2008年11月25日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 先週のKOI(関東沖縄IT協議会)例会で講演と云うよりは当社の苦労話をご披露しました。趣旨はわれわれIT業界のみならず、経営者として今後迫り来る逆風にどう対処するかの処方ですが、そんな妙薬はある筈が無く、参加各社の対応策の意見・交換会でした。
 91年代初めのいわゆる“バブル崩壊”時、同業者の3分の1が倒産、当社も3年連続で売上・社員減を来たしながら、いかに黒字で乗り切ったかの体験談。
 売上げが減れば、それに伴うコスト抑制しか利益確保の道はありません。コストと言えば装置産業と異なり、高労働分配率(資本の有機的構成の低い)われわれソフト開発中心のIT業界では直間比率の見直し、人件費抑制が最も即効性のある方策です。問題は賞与、残業、時には給与削減を実現しながら、優秀な社員の退社をどう防ぐか。それには日頃からの経営情報の開示と共有化、オープンな社風の構築。平たく言えば“貧しさを共有・分かち合うカルチャー”=“守りに強い会社”作りです。逆風に際してのこうして会社の強さはいわゆるデュデリアンス等の数値では決して測れるものではありません。
 しかし、こうした郷土体的会社の体質は仲間同士の創業当初はともかく、30年も経つと組織は間接コスト比率は高まり、良くも悪くも弾力性や属人性が失われ、こうした手法がどこまで通用するかは不明です。GMではありませんが 「1期や2期赤字であろうが会社は賞与、残業はちゃんと払うべき」という正論?が強くなるからです。
“賢者は歴史を語り、愚者は経験を語る”ですが、今回も“愚者の体験談”でした。わずかな抗弁は“体験無き歴史、一般論は胸を打たない”でした。

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「川村・テレビ朝日コメンテーター」

2008年11月24日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 今月の「三月会」ゲストスピーカーは以前にも登場頂いたテレビ朝日コメンテーターの川村晃司さんの再登場。河合さんは早稲田の文学部卒、私の後輩ですがカイロ支局長を務め、イラン・イラク戦争や天安門事件を最前線で取材。
「ニュースステーション」報道デスク担当され、先頃無くなった筑紫さんとも親交が深かったという。川村さんは外交、政経部門に強く、沖縄にも殊の外関心を寄せられ、私のBlogにもしばしばコメント頂いた。この日も日本のマスコミの最前線に居られるだけに、話題は幅広く、麻生首相はじめ官邸周辺の生々しい取材秘話をお話頂いた。
 そもそも「三月会」との縁は、事務局を長く担われている新垣由起子さんがアラブ大使館勤務以来のお付き合い。実は今回、ご尊父は青森出身ながらご母堂が奄美出身ということを初めてお聞きした。その所為もあり最近は大島にも関心が強くなり、近く訪問予定とのこと。拙書「おきなわ就活塾」もお読み頂いたこともあり、近く二人にとって共通の”失われた故郷”奄美の談議、一席を持つことになりました。

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「ホクガン日光工場へ!」

2008年11月24日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 前日の東小金井の「昇曙夢偲ぶ会」に次いで、翌23日栃木県日光市の㈱ホクガン工場の落成・披露宴に出席しました。上原知事広報室長、護得久農水部長はじめ大城琉銀・嘉手納海邦銀、両頭取はじめ50名近い沖縄県官・経済要人が遥々参加していたのには驚きました。地元栃木沖縄県人会の動員・活躍にも瞠目。
 敷地6000坪のモズク加工製造工場を何故、栃木日光に?と思っていたら、水質の良さと共に製品出荷のコストダウン事由という。首都圏で販売されているモヅク原材料は別として加工、製品化の多くは本土企業によって首都圏で行われたいたという。沖縄県内への工場誘致はともかく、沖縄企業の本土工場進出は聞いたことが無い。日光市長の再三の誘致訪沖もあったという。ホクガンはこの工場進出を契機に「ANMER」ブランドを確立、首都圏制圧を狙うという。
 工場見学の後、鬼怒川温泉「ホテルニュー岡部」で行われた式典には県立芸大名誉教授の城間徳太郎師範の「仲風節」独唱に喜納幸子一門琉舞五目とさながら沖縄文化祭。琉球の歴史から文化紹介と見事な司会、誰かと思ったら何とこのイベントのために上京した崎山律子さん!司会の合間にしばし先般早稲田フォーラムでお会いした由井晶子先輩談義!    
                              
                    (司会の崎山律子さん!)






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「昇曙夢先生没後50年を偲ぶ会」に出席しました。

2008年11月22日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 11月22日土曜、奄美大島は加計呂麻・芝の生んだロシア文学者の「昇曙夢先生を偲ぶ会」が行われました。多摩霊園・墓前祭には出席出来ませんでしたが、隣接の武蔵公園側の料亭「コタン」で行われた第2部“復帰を語り継ぐ会”に出席しました。会場には大学教授、医者、官僚等龍郷・笠利から瀬戸内・喜界まで首都圏在住の大島出身長老中心におよそ70名。
 2部ではロシア文学者で不朽の「大奄美史」を著し、奄美の日本復帰に功績のあった故昇先生の追悼談や研究発表。
 中でも印象に残ったのは「哭きうたの民俗学」で著名な酒井正子川村女史学園大教授の発表。テーマは奄美の代表的民謡である“カンツメ”節に関す奄美民謡歴史家・昇曙夢、文英吉、茂野幽考3氏の著述比較実証研究発表。島々で唄い語り継がれるこの代表的民謡が持つ悲調から楽天・ロマンと幅広い意味と解釈に3氏それぞれの個別体験と生立ち背景の影響を紐解く。15分余りの短い時間ながら異色の発表内容。
 それにしても開会冒頭の“郷土遥拝”等沖縄県人会との色彩・様式の違いにいつもながら興味を惹かれました。
         
              (酒井川村女子学園教授と)            

 
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「琉球舞踊にみる服装表現」②~「諸頓」「花風」をとおして

2008年11月18日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 戦後沖縄県内での琉球舞踊は「沖縄タイムス」「琉球新報」県内両紙がそれぞれコンクール・表彰、競うように育成して来たが、流派に関らずこの両紙派の服装が微妙に違うのをご存知だろうか。その典型は足袋底色でタイムスの赤に対し新報は白。
 鉢巻頭(がまく)中央に飾る花は新報が椿に対し、タイムスは薔薇と私は思って、高校同期の琉舞「康舞会」家元の金城康子さんに確認したら、双方とも同じ椿だけど、新報に比べタイムスは花模様の周辺がシンプルで薔薇ににているがやはり椿とのことだが、いずれにしろ両紙は明確に差別化しているようです。
 ところで、琉舞古典NO1「諸鈍」をもたらした我が奄美加計呂麻の長浜諸鈍!琉球古歌にも”諸鈍みやらび、カーギーのチュラサやー”と歌われ、首里使者のマーラン船が出入りしたと祖母から聞いたことがあるが、首里王府出先最高役人の与人が駐在したと言われる?この諸鈍は王府から見ても余程に憧景の地だったのか。その謂れと由来、背景を知りたいものです。
 ところが、先日この琉舞古典七踊の筆頭に掲げられる「諸鈍」が奄美・加計呂麻に由来することを知らな踊り手がいるには吃驚しましたが、一方そんな踊りがあることを知らない諸鈍出身者がいたことにも又、驚きましたよ!T君!!(^_^;)
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「由井誓 遺稿・回想」;追悼集刊行会

2008年11月16日 | 「Weekly 読書感想」
 元沖縄タイムス編集長・由井晶子さん亡夫・誓さんの追悼・遺稿集。今から20年前由井さんからお便りと共にお贈り頂いた本書、実はつい先日まで本棚の奥に積読していました。先日、早稲田大学でファーラムを御一緒頂いたのを機に取り出し、読み通しました。
 由井誓さんが「赤旗」の編集員ながら本部方針に異議を唱え党除名されたことは聞いていましたが、私達の世代にとっては今や伝説の“球根栽培、山村工作隊、極左冒険主義”早大代々木派の尖兵として火炎瓶製作から米軍基地への投擲と生々しい過激行動を淡々と述べる回想。それでいて人柄は純粋、はにかみ、ユーモアーに満ち、主義主張を超えて幅広く人々に愛され惜しまれたことが中学・高校・大学・党員と実に60名を超す追悼・回想録から読み取れます。その中にはあの津金佑近、大金久典、いいだもも達との交流にも今更ながら驚きです。
 中でも日本復帰前の奄美出身“日留生”はしりながら沖縄復帰運動の萌芽を担いつつ夭逝した種田重信氏への故由井氏の文章は同じ大島・早大出身の先輩として私にとって衝撃的とも言えるものでした。
 巻頭アルバムの数々を見つつ、純粋と直向な光芒を残し55歳で逝った由井誓さんの好男子・遺影を昨日のことのように追いました。先日、10年振りの由井晶子先輩との出会に伴う20年振りの御亡夫遺稿との出会い、人と書との出会・契機、歳月を超えて、改めて故由井誓さんのご冥福をお祈りします。
 それにしても眩いばかりの先鋭・好漢活動家に寄り添った若き日の由井晶子さんも相当に純粋だったのでしょう!早大政経同士、学生時代からのお付合いと思ったら、タイムス就職後の復帰運動・取材を通しての誼だったんですね。巻末を飾る「思い出はよきことのみ」と題する簡潔な由井さんの回想文を読みつつ想いました。       
                  

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「沖縄 だれにも書かれたくなかった~②」”記者時代の出会”

2008年11月16日 | 「美ら島沖縄大使」便り
沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史
佐野 眞一
集英社インターナショナル

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 実は本書に書かれている出来事と私の経歴体験が重なる部分があります。本書の「エリート議員の失踪と怪死」というタイトル記事。
 それは旧制県立3中(名護高校)、琉球大第1期生として明大から東大大学院に進み、司法試験に合格、その後琉球立法議員(県議)に当選し、将来沖縄を背負う若手政治家エースとして嘱望されたイケメン・中村晄兆議員の怪死と失踪事件。 1966年(昭和41年)沖縄民主党の若きエースと期待されていた二期目の中村議員氏が当時の安里積千代社大党委員長と長嶺秋夫立法議院長と3人で日本政府に裁判件問題陳情で上京中に失踪した事件はハッキリと覚えていいます。(82P)
 この年、私は琉球新報東京総局に入社、駆け出し記者としてこの事件に遭遇、上司の島袋デスクの指示で議員が宿泊したという新橋第一ホテル等へ取材に行った記憶があります。失踪5日後渋谷の歯科医院に入院していると連絡を受けた長嶺議長は飛んで行って、中村議員のビンタを張ったという。(84P)
 実は私が拙書「おきなわ就活塾」で“琉球新報社時代の思い出”として156Pに載せた下記の参議院食堂での安里委員長と長嶺議長3人の写真は、まさにこの中村議員の失踪最中の情報交換している様子だったのです。
 その後、東京総局詰の先輩記者達とこの事件取材の経緯を座談会でまとめた記憶もあります。私の記憶では中村議員は渋谷歯科医院の前には熱海山上のホテルにいたとの確かな情報があり、そこを訪ねた覚えがあり、今でも新幹線上からこの円形ホテルを見る度に思い出しますが、本書にはこのホテルは触れられていない。
 後に摩文仁の崖に落ちたり、最後は福岡で怪死する中村議員。それは彼が軍に勤めていた52年に起こった米軍現金輸送強盗事件が絡んでいると本書は書いてある。  
               
(1996年、参議院食堂で安里積千代沖縄社大党委員長・長嶺立法院議長と中村議員失踪で情報交換)
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「ブラジル紀行~旅と歴史」(28)~余禄に代えて

2008年11月13日 | 「南米紀行」
 これまで連載した私の「ブラジル紀行」を読んだ同期の我部政雄・元山梨学院大教授から「君はやはり史学徒だな!」と言われ「そうかな?」と自問自答。そういえば旅先では知らずに歴史的視点から街や人を見ているかも知れない。
 私の在席した当時の早大西洋史は例の“近代の超克”京都学派一方の泰斗・鈴木成高教授を中心とする中世史全盛で、クラスメートの中には何人か鈴木教授の自宅を訪ねその謦咳に接し、歴史の教師になった同級生も5人を超える。
 私もそうした先輩、同期に触発されて一応西洋史学徒必読書と言われたランケを紐解く一方、シュペングラーの「西洋の没落」やホイジンガー「中世の秋」等も齧ったが、関心の主要テーマーは産業革命とその前史。そのためしばしば政経学部の小松芳喬教授の「経済史」講義を聴講し、大塚久雄教授の近代前史、いわゆる大塚史学に惹かれ生齧り。まあ、言うほどの勉強をした訳ではありませんが、卒論はクラスでは異色、異端の「産業革命学説史」と中途半端でした。
 もっとも、曲がりなりにも西洋史を専攻したからこそ、リオの尖塔寺院を巡りつつクラスメートの勧めを受けて、とにもかくにも読了した難書といわれるウンベルト・エーコ(河島英昭訳)の「薔薇の名前」を思い出したりしました。今回は、否、いつもなが”ぺダンテイック”に流れたか(^-^*)
        
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「鶏口牛後?鶏頭竜尾?」

2008年11月12日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 先般、早稲田大学出身のIT企業経営者の交流・懇親会「情報産業稲門会」に出席しました。
会長は東証一部の㈱SRIホールデングの丸森会長で、会員は90余名。ほぼ毎月、主として早稲田大学の校友会倶楽部として発足した麹町の「永楽倶楽部」で講師招聘により講演会や懇親パーティー以外にゴルフコンペ等が行われています。
 この会のもう一つの特徴は、慶應義塾大学出身者の情報産業関係者からなる「情報産業三田会」との親睦。毎年新年会は銀座の「交詢社」で行っています。ゴルフコンペは三田会に連敗中とのこと。先頃の就職セミナーのように現役の学生を招いての交流も盛ん。メンバーには上場、老舗企業が多い上に、IT産業だけに大半は理工出身で、希少、文学部卒OB・零細企業の私は出席しても小さくなっています。私はゴルフ不調法な上に3回に一度位の出席、余り良い会員とは言えませんが、先月の例会に久々に出席しました。
 人間、“お山の大将”=“鶏口”もいいが“牛後”も時にまた必要!類語“鶏頭竜尾“は間違い??ややこしい!
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「関東城岳同窓会」に参加

2008年11月10日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                     (校歌を唄う!)
 先週日曜、沖縄県旧制二中とその後継・那覇高卒業生からなる関東城岳同窓会に出席しました。
 遠路那覇から参加の翁長校長をお迎えし、70歳を優に超す元日銀理事、作家、大学教授、弁護士等15名の二中の大先輩等100名近い同窓が参集。
どの同窓会でも共通の課題は若手の参加ですが今年新卒61期生二人が来賓として参加以外は大きく跳んで21~58期の参加はゼロ。参加9割は60歳以上。これも期によって参加の偏りと特徴があります。
 本同窓会の場合、毎回そうですが8期と10期が10名前後の参加と多い。それ以外に今年は11期生が9人と目立ったのに対し、わが12期は私一人だけ。因みに13期も一人。歴年仔細に見ると期の参加数はその期の結束性や幹事役の動向に左右されるようです。
 同窓とは言え参加により毎回新しい出会いがあり、今回も同期・高里鈴代さんの弟さんが首都圏で貿易会社を経営している等奇特な巡り合いに驚きました。
 通常、後輩は先輩を覚えているものですが、その逆は珍しいの通り、中学2期の後輩女性から「だって、重田さん、生徒会長だったでしょう!覚えていますよ!」と言われて、驚きました。
                   (その中学二期同窓達と二次会)
                             
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「ブラジル紀行」(27)~終わりに当たり

2008年11月10日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 正味1週間の南米・ブラジル紀行を終え、これまで30回近い埒もないコラムをアップして参りましたところ、多くの方から直接、間接のコメント、ご意見等を頂き有難うございました。中でも意外だったのは野入直美琉球大学・移民研究センター准教授から「コメントは私にとって最も貴重なものでした」等の丁重なメールを頂き恐縮しています。
 さらに、弁護士で沖縄大学法経学部で「比較法文明論」を担当なさっている組原教授から「ブラジル紀行」Blogコラム・コンテンツを講義で使わして欲しいというご依頼のメールを頂き、これまた驚きました。また、大学院で移民ネットワークをテーマに研究している教授のお嬢さんからも「参考にさせて頂く」旨のメールを頂き、予想外の反響にBlog発信の重さを改めて感じさせられました。
 さらに、その研究生の幼児の思い出を持つ亡くなった御母堂と生前親しくしていた私の知人から思わぬ消息巡り合わせにコメントを戴く等、私のBLOGが取持った奇縁に驚くと共に拙い私の発信への忠言、感想お送り頂いた皆様へ改めて御礼申し上げて「ブラジル紀行」コラムの収束とさせて頂きます。閲覧の皆様有難うございました。
         
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「沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史」;佐野眞一

2008年11月06日 | 「Weekly 読書感想」
沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史
佐野 眞一
集英社インターナショナル

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“沖縄コンフィデンシャル”として長く月刊「Playboys」誌に連載されたスキャンダル・ルポ。600P超す本書およそ10日間で読了。私にはこれまで余り書かれなかった在沖奄美人ストーリ部分がことに印象深い。まあ、何と言うか沢山の交友知人が登場する同時代史。中でも53年の日本復帰と同時に辞職・追放された泉副主席・立法議院議長、池畑初代琉銀総裁、宝村初代金融公庫総裁、屋田電々公社各総裁等多くの奄美出身者の公職TOP追放談。多くの大島出身者が知るところだが私達は余り話さなかった。
 当時”これ差別じゃないか!”等と言おうものなら”じゃ、帰ればいいじゃないか!”と言われたもの。その中でも創価学会だけは平等に扱ってくれた。そのためにいまでも浦添、城間(ぐすくま)を中心に奄美出身の公明党・学会員が多いこと、本書にも抜かりなく書かれている。
 当時の大島人パージは米国民政府の指令と言われているが、後ろには追放されたポジションを踏襲できる地元沖縄人の陳情があったともいう。何故奄美出身者がかくも多く枢要ポジションを占めていたか?それは、終戦直後のペーパーテストの上位は多く大島人が占めたという事情が背景にあったようです。それは大島出身者のIQが高かったというより、鹿児島の影響を受けた立身出世価値観、尚学マインドが沖縄より高かった故と思う。それ他、私が小学の頃古仁屋で縄張りを仕切り、よく顔を見た顔役・マジ・アニョ(清真島兄)の復帰前の沖縄アウトロー界蹂躙と暗躍談。復帰による彼の大島パージで旭琉会等の地元ヤクザの台頭。

 それより川平県人会長4代物語等数多いインタビュー相手の中に同期の高里鈴代、金城康子、宮城義明等の登場にはびっくり。レキオスファーマー社長で元舜ママの奥キヌ子さん、「絹」の池田ママさん、「松乃下」のアイヴォさんや宮里さん等多くの知人登場に寝る間も無くページを追った。
 しかし、沖縄だけでなく大阪だって北海道だって、こうしたスキャンダル、アンダーグランド挿話を繋ぎ合わせた筆致で描けるのではないか。ここに描写されている“異郷”沖縄ストーリー!どう理解するか、暫く経たないと総括出来ない。



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朝吼夕嘆

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