手塚治虫のオキナワ本浜秀彦春秋社このアイテムの詳細を見る |
“手塚治虫と沖縄”なんで?”と訝る人は多いと思う。私も本書によって手塚と沖縄の縁を改めて深く認識しました。何より、手塚は75年沖縄で開催された「沖縄海洋博」の「アクロポリス」(海洋都市館)のプロデューサーだったことを本書で初めて知りました。
実はその9年前の66年、私は新米「琉球新報」記者として、手塚治虫に直接インタビューしています。その詳細は本書129ページに掲載されています。
眠い目を擦りながら本書を読んでいた私はこの個所で目が点になり、一気に本書を読了しました。
そもそも“書との出会いは著者との出会”と言いますが、今から20年程前、銀座の沖縄スナック「芭蕉布」での著者との出会を忘れることは出来ません。私にとって衝撃的だったのは著者が当時「新日鉄」と並び日本の製造業を世界に代表するフラグカンパニーの「川崎製鉄」を辞め、私が“在琉奄美人”として未来への閉塞感から1年で退社したローカル「琉球新報」記者に転職入社したことを知ったからです。時代背景と28歳違いの世代相違とは言え、同じ沖縄、早稲田出身、その時ほど人それぞれのキャリア選択、価値観の違いを考えさせられたことはありません。その後、本浜さんは米国留学、沖縄キリスト教学院教授と学究生活の現在に至り、方や私はIT起業、承継、リタイヤとの軌跡対比に感慨を覚えます。
次の出会いは拙書「おきなわ就活塾」(新宿書房)で先に挙げた手塚治虫氏への「私の四・二八」コラムインタービュー記述を読んだ本浜さん、その掲載記事を検索、見付け“どういう動機で手塚さんに会ったの?”と興奮して聞いて来たことです。
“当時の本土著名人に沖縄問題がどの程度浸透しているかの一種の検証、啓発としての人選”という私の回答に、少しがっかりした彼の反応を覚えています。本書を読んで、改めて著者は私に自分と同じ通常フアンを越えた手塚世界へのシンパシーと共感理解を求めたのでは思い返します。さらにその後、早大琉球・沖縄研究所員としての会遭。
21世紀は紛れも無く中国を中心とするアジアの時代。“マージナルからフロンティアへ”の可能性と未来を暗示する如く“島、海”と沖縄を描いた手塚ワールドにスポットライトを浴びせた本書。かくも多彩、多方面と驚く手塚先行研究家のコメント引用網羅と紹介。惜しむらくはこれらの索引が欲しかった。
時あたかも先週、沖縄の浦添美術では手塚治虫展が開催され、地球女イナンナ倶楽部では手塚プロ 版権局長・清水義裕氏の「手塚治虫の漫画とアニメについて」の講演が行われた。たまたまの偶然なのか、手塚治虫の時代へのメッセージだったのか。それにしてもこれでもこれでもかと四方八方、多角的な著者の手塚論、小学6年の時に直接手書きを貰った興奮と経験だけでは語れない多角的手塚世界が論究、展開されています。本浜さん、送呈有り難う御座いました。