”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「加計呂麻を目指して」豪雨災害レポート②

2010年10月31日 | 「奄美災害体験報告」

             
 奄美大島北端の空港から本島南端の古仁屋まで順調であれば、奄美を初めて訪れる人々を魅惑する山道と海岸縁とくねくね大小10近いトンネルを潜り2時間ほどかかります。

この中で住用村に架かるおよそ三太郎トンネルが最も長いようです。

名瀬市を通過、新和瀬トンネルを抜け、名瀬と古仁屋の中間点・住用に入る辺りから急速に雨脚が激しくなり、運転の原君と「大丈夫か?行けるか?」などと話しながら、区間一キロ近い最も長い三太郎トンネルを抜けたところで、濁流の前で立ち往生、行く先を塞いでいる三台の車に出会いました。私達もトンネル出口で、およそ20分以上前方の車が動くのを待ちましたが、雨脚は激しくなる一方で前方駐車も一向動く気配がなく、車上から見る川は海の浮遊物を乗せた海流が見る見る逆流、溢水。

やがて、運転の原君が「会長、古仁屋行きは無理みたいです。今日は一旦引き返し名瀬に泊まり、明日向いましょう」と引き返しました。

ところが、テレビでも何度か報じられた住用村の「奄美体験交流館」(体育館)前を通過、名瀬に向う和瀬海岸沿いの道が冠水、通行不能、水が引くのを待ちましたが、折からの満潮で海水は増える一方、ママよと再度古仁屋行きを目指し、三太郎トンネルに引き返しましたが、出口には前回を上回る車が立ち往生していました

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「10月20日、奄美入り」~豪雨災害レポート①

2010年10月31日 | 「奄美災害体験報告」

20日水曜午前8時35分、羽田発、午前11時奄美空港着。
空港には友人の原㈱プリアンブル社長の弟・健二君が自家用ライトバンで古仁屋から出迎えに来てくれていました。雨模様ながらさほどの悪天候は予想されず、当然のことながらこの時点では、二人ともこのライトバンでこの後30時間共に過ごすなどとは予想だにしていません。

那覇空港から市内までは車で15分足らずで行きますが、奄美本島北端の笠利町の奄美空港から奄美中心街の名瀬市までは車で山間を縫い、45分ほど掛かります。名瀬に着いたころは雨脚が強くなりましたが、そのまま本島南端・奄美本島第二の町・古仁屋に向かう国道58号線を下り、フェリーで両親の生まれ故郷である加計呂麻島・須子茂に向う算段でした。

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「奄美訪問に先立つ過密、錯綜9日間」

2010年10月26日 | 「奄美災害体験報告」

 今回の私の奄美大島災害遭遇について、50通以上のお見舞いと問い合わせのメール頂き有難うございました。

この奄美行きに先立つ1週間の間に以下のように高校、大学の級友等多くの人と出会う機会があったのも大きな理由だったと思います。

1020日午前11時奄美大島北端の名瀬空港着から翌日21日の午後11時本島南端の古仁屋に辿り着くまでの都合30時間、車中移動、宿泊、豪雨避難を経験しましたが、その前週は以下のようにスケジュール錯綜でした。9日の間に東京、沖縄、奄美を飛行機、車、船で縦断、2往復、恐らく生涯二度と無い経験をしました。
 以下追ってご報告します。

 
1013日(水)18:00;東京「都市センターホテル」“仲井真知事激励会”出席

 14日(木) 朝一便羽田発沖縄へ、沖縄国際大で講義。友人と会食懇親。
 
15
日(金)県内顧客及びマスコミ各社へ合併新会社発足挨拶訪問。
 16日(土)母校那覇高100周年式典、同期会。最終便帰京。午前0
時帰宅。
 17日(日)母校早稲田大学卒業45周年Homecoming
式典、クラス会出席。
 19日(火)関東沖縄IT協議会総会及び懇親会。午前0
時帰宅。
  20日(水)8時半朝一便羽田発、11時奄美大島名瀬空港着。 (車中30
時間) 
  21日(木)23
時、(奄美本島南端)古仁屋着。
  22日(金)18時 貨客フェリー「きかい丸」で古仁屋港発、21
時、名瀬港着。
 23日(土)19時 最終便で奄美空港発、21時羽田着。23時帰宅。

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「前夜・関東沖縄IT協議会総会」~激動の一週間①

2010年10月25日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 10月19日火曜午後7時、翌早朝奄美出発を控え“早めに帰宅して準備しなければ”と思いつつ、京橋区民プラザで開催された関東沖縄IT協議会定例会。
沖縄県内ITベンチャー黎明の雄として一世を風靡した稲泉㈱DMF社長との10数年振りの顔合せに久方振りの贄㈱ジャスミン社長等いつに無い多彩な出席顔触れについつい時間を忘れ、慌てて帰宅したのが午前零時前。一風呂浴び、翌朝奄美行き一便に備え、仕度準備就寝したのは午前2時。
 一月前から知っていたこの奄美出張仕度がこの日まで遅れたのは、前週末沖縄での講義に高校100周年、帰京翌日曜の早大卒業45年目ホームカーミングデイ式典、さらに専攻クラス会と立て続けに錯綜したスケジュールのため。当然のことながらこの時は翌日から起こる激動一週間、知る由も無し!
  
                            
                  (画像は今井関東沖縄IT協議会副会長Blogより複写)

 
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「銀座三ママ、有り難う御座いました」

2010年10月18日 | 「美ら島沖縄大使」便り

    数年振りに銀座クラブ「マダム夕雨子」、「阿壇」知念ママ、「芭蕉布」瑞慶覧さんの三ママと会食。この4人、男女を越え、幾つかの共通点があります。共に沖縄日本復帰前、パスポート持参で来日、それぞれ大學、専門学校と進学。
 最大の共通点は異業種とは言え4人とも今日まで創業30年以上の事業継続!いわば戦友同士。とは言え、他の三人はお金を取る人で、私一人が支払う人(´Δ`;)さらに、私との大きな相違は3人、特定男性に依存せぬばかりか、逆に銀座での稼ぎを揃いも揃って郷里の親兄弟支援に折々仕送り、サポートしている点。さながら”ウチナーウナイガナシ”を地で行く逞しさ。
 実はこの日、私が接待の一席を設けたのは拙書「おきなわ就活塾」(新宿書房)出版三年経過を機に、印税?の一部を早稲田大学琉球・沖縄研究所、沖縄協会、対馬丸記念館、琉球大学、那覇高校等に合計160万円を寄付した報告とお礼。
 というのは、新宿のクラブ「北山」「ぶうげん」と並んで、これらのお店とママさん達がそれぞれ数10冊単位で最も「おきなわ就活塾」を来店・お客に押売、協力して頂いた御礼。と言って、この売上、結局私の訪店代金として回収された”自書自買”か(?いや失礼(^_^;)。
 いづれにしろまあ、私が寄付したというより拙書を媒体に購入・御協力頂いた方々の御厚志が上記・各機関に御寄付されたことを、この場をお借りして、御報告、御礼申し上げます。購入並びに出版パーティー開催、御来所頂いた皆様、改めて御協力有り難う御座いました。
 このマダム3店以外に新橋・リクルート裏の沖縄居酒屋「ウチナ~タイム」にも未だ10冊近い在庫がありますよ、皆様!
            
こちら歌舞伎町「北山」「南風」「ぶうげん」沖縄3店いずれも創業30年以上)

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「明治・大正・昭和 作家追想」:松山悦三

2010年10月11日 | 「Weekly 読書感想」
 友人の高宮城君から贈答受けた岩波教養文庫の古書。
 ジャーナリスト生活45年の編集者による漱石、鴎外、露伴、藤村から与謝野晶子、林芙美子、宮本百合子、岡本かの子、と明治、大正、昭和の日本を代表する気の遠くなるような高名作家34人に関する追想録。
 著者はほとんど全ての作家からの書簡を保持し、それを披瀝しており、これだけの大作家のオンパレード。ほとんど全ての対象作家に関して、男女関係の縺れやエピソードが描かれているにもかかわらず不思議に臨場感やリアリティ感が迫って来ない。わずかに記憶に残っているのはあの有名な谷崎潤一郎夫人の佐藤春夫への譲渡問題?のみ。それにしても日本を代表するこれだけの作家連と一世代一人の編集者が接触があったとは!
 正直、日経日曜欄、スキャンダラス、暴露調とまでは言わないが、これでもかこれどもかと連載中の瀬戸内寂聴の「奇縁曼荼羅」の方が横尾 忠則独特のイラストの所為か余程印象深い。まあ、古典的歴史的人物より、「奇縁曼荼羅」に登場する人物は同時代、その言動を身近に感ずる機会があったためもあるだろう。久し振りの文庫本!
 とは言え、時に時代カレントを離れたこうした古典文庫に接するのは一服の清涼剤とも言えようか!高宮城君、贈答有難う。

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「我が同郷・叶芳和教授快哉!」

2010年10月07日 | 「Weekly 読書感想」
 地域経済をリード振興目指す㈱東方通信社の月刊誌「コロンブス」9月号表紙を飾る拓大教授・経済評論家の叶芳和氏。同誌並木編集主幹との今後の対中国政策提言の冒頭対談。先頃、産業公害を見事に克服した北九州市の貴重なノウハウ経験をアドバンテージとして対中国に売り込むべきという提言には目を見張りました。
 83年から96年当時、国民経済研究協会理事長として、小選挙区制による農村票に呪縛される当時の自民党と農林省エリートに支配される日本農政への胸のすくような先駆的批判論は今も有効性を保ち、鮮明に記憶しています。
 先年は永田町議事堂に孤高、挑戦するような気負行動力の持ち主のこの人、実は我等が奄美・加計呂麻芝出身。芝と言えばロシヤ文学の泰斗・昇曙夢を筆頭に豊島性に代表される島随一の人材輩出・伝説の我等が島。
 私ごときがコメントするのは畏れ多くも失礼ながら、そこは同じ島ッチュ、俗な世渡り、輿望指向とは一切無縁に世評など何処吹く風の言動に毀誉褒貶様々なれど自由自在。今後ともその天真爛漫ライフスタイルを貫いて欲しいと思います。
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「与那国パワー洗礼を浴びました」

2010年10月05日 | 「美ら島沖縄大使」便り

 先月中旬「東京与那国郷友会(入沢紀会長)創立60周年祝賀会」の招待を受け、出席しました。参加者は優に500人近く。
 与那国は晴れた日には台湾の島影が見える日本列島最南端(実は経度では最西端)で八重山に属しますが、この日参加して感じたことはそのカルチャー・雰囲気は八重山よりも宮古島に近い。
 手前勝手な解釈ですが、東京には「八重山文化研究会」があり、多くの島出身者がリタイヤに際し自分史や回顧録を著し、ビジネスを“銭儲け”と排する士農工商的一種のディレッタンチズム優先、評価指向を感じます。
 ところが、同じ八重山とは言え、この与那国出身者には首都圏・県内出身企業として売上・従業員規模随一を誇るオーム電機創業の新里会長、琉球大学卒としての初の東証一部IT企業の浦崎社長、関西では菓子業界トップのエーデルワイス社の比屋根社長、さらに“女細腕一本”で首都圏で居酒屋展開、高円寺駅前に自社ビルを構えた高橋淳子と歴々たるビジネス、企業マインド旺盛な成功家を排出しています。これは“アララガマ”(荒々しき魂)精神を標榜する宮古島スピリットに近いのを感じます。
会場の熱気とパワーに接し“革命はマージナルから”というフレーズを思い出しました。“辺境だからこそ、団結とパワー”とは失礼な言辞だろうか。さらに、参加の人々の詩歌、踊り、語らい雰囲気に浸っている内にかつて奄美出身の在沖新聞記者の“沖縄、宮古、八重山と南へ行く毎に内なる母体に回帰する”との記述を思い出しました。
       
              (入沢会長を囲んで)

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「新城県立芸大サンシン博士“やいま“ライブ!」

2010年10月03日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 年恒例の神田「やいま」での新城亘・沖縄県立芸大サンシン博士による沖縄民謡ライブショウとレクチャー。新宿書房・エディターの川平いつ子さんの企画とあって知友4人を引き連れ参加しました。会場立錐の余地無く満席。中に八重山出身の高校同期とも会合。満席会場の殆どは八重山出身者が占めている。
臨席顔触れを見ていつも感ずるのは沖縄本島出身と何か微妙に異なる風貌、雰囲気、カルチャー。
 高校時代にも八重山出身のクラスメートには苗字、訛り、顔付に何かヤマト風の雰囲気を感じたものです。私だけでなく、年度始業時の担任教師も「そうか、君は八重山か!」と頷いたのを覚えています。この島、西表炭鉱従事を含め、四国、八丈島等のからの外来移住者が多かった歴史的事由があったのか。
 それはともなく、この日の新城亘師匠と川平さんには拙書「おきなわ就活塾」(新宿書房)の上梓と出版パーティには一方ならぬお世話になった恩があります。
       
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朝吼夕嘆

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