”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

“浦和役人に鎌倉文人!茨城巡査に千葉女中!”

2009年05月30日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 標題前者は大学卒業後、短期勤務した行政管理庁(当時)の上司から、後者は大学時代の中野・新山通り下宿の小母さんからそれぞれ聞いたフレーズ。いずれも関東地域の気質出自を表現したもの。
 先日、出席した「浦和稲門会」でふと思い出しました。早大卒業生はおよそ45万人。同窓「稲門会」は国内地域別に400、海外にも50ほど存在する。沖縄の場合は沖縄県稲門会一本ですが、私の住む埼玉では県支部の下に20を越す地域会があります。「浦和稲門会」には奥島元総長がはじめ本部常任幹事七人中3人が占めるなど本部での存在は大きいらしい。
 先日、浦和ワシントンホテルで行われた総会出席者はおよそ60名。早大OBの利根埼玉りそな銀行会長の記念講演。出席者の大半は大企業や役所を停年リタイヤしたOB。若い出席者と名刺交換したら、いずれも地元有力企業や素封家のジュニア跡継。そう言えば大学のクラスには浦和一女出身が二人いました。当日出席の沖縄出身は私一人。当然の事ながら有数の公立進学校の浦和高出身者も多い。余興に現役早大女子学生の“チンドンヤ・クラブ”が登場、懐メロを演奏、歌い、満場を沸かしました。
 冒頭のフレーズは浦和には東京勤務の教師、公務員等インテリー層が多く居住、その子息が浦和高校に在席したのに対し、鎌倉には作家、画家等の文人自由業者が多い傾向を表現したのだろう。“茨城巡査に千葉女中”は維新後の水戸侍の平民化と漁村千葉女性の気質から由来したのだろう。  
          
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「津梁パーク」セミナーに参加しました。

2009年05月29日 | 「美ら島沖縄大使」便り
          (挨拶する仲井真知事と懇親会司会の嶋田誘致推進役)
 仲井真知事出席の下、永田町・市町村会館で沖縄県IT産業誘致、振興策のシンボルでもある「津梁パーク」構想シンポジウムに参加しました。
 知事の冒頭挨拶、勝目商工観光部長のプレジェンテーションに続き、中島洋さんの司会による南郷㈱沖縄ソフトセンター社長、比屋根レキサス社長、大畑㈱外為どっとコムNearOffsho成功事例とアジアへの橋頭堡沖縄ではならではの中国ソフト社・成都ウィナーソフトの周CEO4人によるパネルデスカッション。当初、この不況とインフルエンザ蔓延の最中、動員は大丈夫かと懸念していましたが、会場立錐の余地もない100社を超える満席。これにはセミナー後の懇親会で知事も驚きを語られていました。
 20年以上前、何の補助支援も政策的インセンティブも受けず、単独自力で沖縄に事業所設立、以来首都圏からの遠隔受注開発を継続している当社としては、現今のこの施策には複雑な感慨がありますが、毎年セミナーに参加して思うことは、プレジェンテーション後の質疑応答時間が欲しいと思いました。さらに、当局に依頼されたパネリストの立場からはなかなか言いにくいでしょうが、そろそろ進出成功事例と等しく撤退事例も出て来ている時期、沖縄進出のメリット、礼賛だけでなくデミリット要素も開示しては。多少のネガティブ要素開示があった方がリアリティに富み、企業はリスクテーク・デシジョンするのでは。
             

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「高木凛さんの講演」

2009年05月29日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 5月「三月会」例会は「沖縄独立を夢見た伝説の女傑」“照屋敏子伝”で小学館ノンフイクション受賞の料理研究家の高木凛さんをお招きし、「沖縄との巡り合い」の講演をお願いしました。そもそも高木さんと敏子の出会仲介はシャンソン歌手・石井好子さん。余程相性が良かったのか、石井さんは公演で沖縄に行くたびに、単身で敏子に会いに行ったという。高木さんはこの石井さんの談話、思い出から敏子評伝の執筆を思い立ったという。この日は敏子の肉声を録音したテープを再生、聞かせたて貰いました。欧州連合から当時の西欧諸国名とその政情をよどみ無く語る国際感覚豊かな敏子の語り口に“やり手ビジネス女性”のイメージを超えたある種、知性を感じました。
 敏子伝以外にも沖縄料理本執筆の高木さん、首里王朝料理レシピに止まらず、“シルジャキー”“ヒジャジールー” まで幅広い沖縄庶民料理への理解、知識に県出身参加者一同、一目も二目も置きました。
 参加者有志、次回は高木さん経営の赤坂の沖縄懐石料理店「潭亭」での会食を約してのこの宵の例会〆となりました。

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「早大オープン講座」上里隆史氏を聴講しました。

2009年05月24日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 ご自分のBlog「目からウロコの琉球・沖縄史」を出版、“洛陽の紙価”に近い評価を得た今、最も若い新進気鋭の沖縄歴史研究家の上里隆史さんよる早大オープン「沖縄学」講座を先週聴講しました。テーマーは「古琉球と海域アジア」。
 赤瓦、門中、エイサー、組踊、ウコン、泡盛等々の沖縄カルチャーは実は全て薩摩支配以降に形成されたもので、12世紀から薩摩侵攻の1609年までには存在しなかったという。そうすると私達はこの「薩摩世」以前の沖縄をどうイメージしたらいいか?恐らく、タイ、ビルマ等の東南アジア、否イスラム程の遠い異郷イメージではなかったか?
 また、沖縄・琉球は辺境孤島というアイランドイメージではなく、“国境”意識を越えた海域イメージ。薩摩世、アメリカ世、ヤマト世論に横たわる“原理的オリジナリティ規定”の限界性を遺跡、文献、古地図等の様々な史的、具体的なエビデンスで説く。方法論としての琉球歴史観を提示された気がしました。
 これまでの“怨念琉球・沖縄歴史観”を越えた爽やか若手歴史研究担い手の登場に拍手喝采をしたい。これぞ勝方早大琉球・沖縄研の目的、狙いの一つでしょう。
 知ったかぶりアシバーの酔言コメントご諒承下さい。上里さんご苦労様。
          

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「勝連おもろのダイナミズム」:福寛美

2009年05月23日 | 「Weekly 読書感想」
声とかたちのアイヌ・琉球史 (叢書・文化学の越境)

森話社

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 本編は先に紹介した吉成直樹編の“文化学の越境”「声とかたちのアイヌ・琉球史」叢書の9論文中の1篇。特に独立して取上げるのはそれだけ私がインパクトを感じた故。この道、ほとんど疎い私が失礼重々承知しつつコメントすれば、著者の「おもろそうし」の読み込みは現今随一ではないだろうか!その造詣に基づく勝連・阿麻和利論はドラマのようにエキサイティング。
 第二尚琉球王朝に於ける、護佐丸・善、阿麻和利・悪の図式は玉城朝薫「二童敵討」によって強化、通史化されて来た。阿麻和利に降嫁した尚泰久王の娘・百度踏上揚(ももとふみあがり)の父への通報ストーリーはつとに有名ですが、本著者は最近活躍著しい若手演出家・平田太一による“肝高・阿麻和利”を横目に見るように阿麻和利「朝鮮半島・倭寇出自説」を示唆している。
 
 ~余談ながら私の執務室には故与那覇朝大画伯が金城吟呼をモデルにした「百度踏上揚」絵があります。
「おもろそうし」は琉球王朝正史とも言うべきき「球陽」や「中山世鑑」以前に編纂されているため、王朝成立後の正史とは内容が相当違うと言う。例えば「おもろ」には私達が中学時代に琉球史として教わった北山・中山・南山の記述は一切なく、この三山史は韓国等大陸の価値観の影響を受けた尚琉球王朝のフィクションという。「勝連おもろ」に描かれた阿麻和利もこの線上で描かれ、勝連グスクの遺跡発掘研究からも明以前の南宋の影響が強く、尚氏王朝とは異なる独立した勝連のダイナミズムを指摘しており、興味が尽きない論稿。
 因みに本書で橋尾直和は「グスク」は百済語と中国語の合成語で、ここにも大陸韓国半島の影響を受けた琉球を指摘している。

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「第32代島津当主の挨拶を拒否する奄美!」

2009年05月21日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 うろ覚えで恐縮ですが、大部以前に鹿児島県商工会青年部(?)が福島県に戊辰戦争・会津戦争の怨念を吹き払う和解イベントの提案・招待をしたところ福島県から「それは未だ受け入れられない」と拒絶した話を聞いたとき“何と、生硬、青臭い!”と思わず驚き、笑ったことがあります。
 ところが、今年5月2日に徳之島町で開催された沖縄大学地域研究所主催の「薩摩の奄美・琉球親交400年を考える講演・シンポジウム」で、島津家第32代の修久当主の挨拶来場に対し、地元の一部から“手打ちは出来ない”と拒否、反発の声が起こったことを聞き驚きました。
 400年前の祖先の歴史の責務を負わされた当の島津修久氏もさぞ戸惑ったかたと思いますが、薩摩の圧制、収奪はそれだけ過酷で、奄美には未だにそれを忘れられない、許せない怨念が残っている証左なのでしょうか。とは言え、怨念感情と研究分析は別にすべきでは!
 
 中国や朝鮮を訪れ、日本の侵略暴虐を責められた際、田母神前空幕長よろしく“歴史的、地理的決定論”や”貴国の方にも問題があったのでは”とか、果ては“われわれの世代には関係ない”とはとても言えなかった。こうした日韓論争を聞く度に、かつて韓国の研究家から聞いた次の言葉が思い出されます。
“戸締りが悪いからと言って、人の家に土足、無断で上がり込み、それを説教するのが正当化される訳がない!”
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「故川平永介先生・追悼刊行祝賀会に出席しました。

2009年05月18日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 5月17日、日本教育会館で行われた『川平永介集ー歌と心』刊行を祝う会
に出席しました。川平永介先生は新宿書房・編集者・川平いつ子さんのご尊父で元教師。平成18年、87歳でご逝去されましたが、生前は都教組江戸川支部委員長を歴任する一方、東京八重山文化研究会の中心メンバーとしても活躍され、独特の筆致の書家としても有名でした。私もいつ子さんのご紹介で生前、ご挨拶申し上げたことがあります。
 刊行祝賀会ながら文字通り追悼会。遠く八重山や沖縄本島からも駆け付けた参加者を含め100余人。都内教え子達も交じり、次々追悼ご挨拶登壇する人々に先生生前の幅広い交友と人徳が偲ばれました。刊行書は117名の追悼文と故人作曲の60以上の歌詞・楽譜収録と共に「わたしのユンタ」という小曲CDも付録されるというユニークな追悼書。
 教師、書家としての故人のご高名は存知挙げていましたが、自ら作詞、作曲もされるとはこの日、初めて知り、その多才さには改めて驚きました。
故川平先生の歌詞や出席者の追悼挨拶全体に八重山文化のエッセンスを嗅ぐ思いでした。その中で交遊深かった小宮永史さんが生前、故人から貰ったという“阿呆”を著す八重山方言メモを紹介されましたが、これは単なるアホ、バカ!と侮蔑表現を超えた”からかい、親しみ、エール、戒め”等々島方言表現の持つ豊かさと故人の感受性を伝えるエピソードと思い、撮らせて頂いたのが下の写真です。
           


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「連休に紀伊半島一巡」

2009年05月18日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 連休、「大阪東三国」「堺市深坂」「伊賀忍者の里・三重」と紀伊半島を周回一巡しました。それと言うのも、6月初頭の亡母13回忌を目前に関西に居住する亡母の3妹弟・叔父母を見舞い訪問。85歳の叔父は東三国で80歳の義叔母と4女1男の子宝に恵まれ、一族共通の脚障害ながら杖付きつつ散歩の毎日。80歳の末弟叔父は堺・泉ケ台に叔母と二人で居住。独身の頃奄美から沖縄に出稼ぎに行ったこの叔父は後に私達一家の沖縄移住の切掛けとなる。その後奄美の日本復帰と共に大阪の沖縄タウン・大正区に移り、今ここ堺・深坂を終の棲家とする。
 姉弟最長寿、89歳の叔母は三重県名賀郡青山の介護センターで寝た切りの10 年。この叔母は若き頃、私達両親と共に満州・大連に移住、幼時“辰ちゃん、辰ちゃん”と可愛がられました。この日は4年振り、無駄だと思いつつも“叔母さん、辰弥ですよ”と何度も声を掛けたら、微かに瞼が動いたような気配。夫に先立たれ、パートで働きつつ10年以上介護を続け「なんとか母を90迄」と淡々と語る従妹・長女の姿に頭が下がりました。
 埼玉で生を終えた母を含め、奄美加計呂麻島に生を受け、満州、沖縄と変転、今関西で終りを迎えつつある80を越す叔父母の姿を見るにつけ、近代歴史に翻弄された日本列島辺境・南西諸島に生を受けた私達の運命を思いました。同時に迫り来る自分の老後を嫌でも思い馳せる今年の連休でした。   
          
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「東京ビッグサイト・ソフト展」へ行って来ました。

2009年05月15日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 連休明けの5月、お台場の国際展示場で行われた恒例のソフトウエア展に行って来ました。当社はこの不況時の今年、出展を控え、来場者大丈夫かと懸念しつつ行って見れば、不況何処吹く風、例年にない人出!東西二つの展示棟で9つのジャンル、一千社近い展示、出展規模。とても一日では廻り切れない。
 今年、特に私の目に止まったのは琉装案内ガールまでも配置した沖縄ITプレゼンス!NPOフロム沖縄推進機構を中心とする組込ソフト構築㈱ハーベル社やWEBツールAmebee展示の㈱レキサス社等単独ソフト会社の独自製品出展が目を惹きました。単なる展示に留まらず、連日組込みソフト基地としての沖縄をアッピール、誘致のプレゼンテーションを行い、そのセッション・コーナーには人だかりが目立ちました。
 ちょっとびっくりしたのは、沖縄県東京事務所の企業誘致担当の上原課長と嶋田担当官、及び県本庁から山里情報振興主査等がオープンから連日ブースに詰めているとのこと。
”ITランド沖縄”が単なる掛声だけでなく、文字通り官民一体の実現具体化への取組と意気込みをひしひしと感じました。
          

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高良明「経営のたすきの渡し方」: 中経出版

2009年05月15日 | 「Weekly 読書感想」
経営のたすきの渡し方
高良 明
中経出版

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 事業承継は経営、相続、税金、遺言と重い課題が重なり、それに関する著述もともすれば重くなり勝ち。私も何度かセミナーに参加、類書も読みましたが、テーマがテーマだけにいずれも困憊しました。
 事業継承テーマというとほとんどのケースが息子等親族への継承が多く、本書もM&Aに関する記述が一部あるものの私が経験した親族以外の生え抜き、外部招聘等のケースコメントは少ない。
 さらに、後継指名は廻りの意見徴収、合意形成要の指摘があるが、私の経験では後継指名は誰かに相談した瞬間、上手く行かない。周り全ての合意は理想であるが、現実にはそれは不可能というのが私の見聞、経験で、承継は誰を指名しても必ず何処からか異議が出る孤独の決断事業で、それによる批判を背負って行くのが指名・被指名双方の責務、宿命というのが経験から得た私の結論です。
 とは言え、本書はそうした重い課題にも関わらず平易、読み易い。創新グループを率いる公認会計士にして税理士の著者。書中至るところに計数帳票が表示されていますが、それに止まらず、随所にイラスト、対話、事例紹介と工夫編集されており、知らずに引き込まれて行く。中でも秀逸はほぼ全ページに挿入さている「Key*Point」「ここをCheck」「豆知識」3種の総計71個の囲みコメント。多忙な人はこのコラムだけを読んでも、十分啓発される。正直、私もページ捲りつつこのコーナーを追いました。平易に書かれているようで、本書の著述、編纂には並々ならぬ工夫と推敲が窺われます。
 
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「社員ご尊父葬儀、山形へ行きました」

2009年05月13日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 山形県で行われた当社一期生・鈴木大阪事業所長・ご尊父の告別式に行って参りました。会場の東根市禅会寺、喪服正装の会葬者400人強が開始30分前からすでに、本堂座敷に立錐の余地無く参席していました。葬儀は曹洞宗住職4人拠る読経50分に続き、自治会長、日赤山形支部長、土地改良組合長、長瀞老人組合長等の弔辞とお孫さんのお別れの挨拶。故人生前の幅広い地域活動と人徳が偲ばれました。開始から2時間弱、ご焼香を済ませた私は会葬者誰よりも早く、待たせていたタクシーに向かいましたが、本殿出口に鈴木夫妻と二人のお嬢さんがわざわざ見送りに出てこられたのは恐縮しました。
 これまで見たことの無い大きな花輪列と両手に持ちけれないほどの会葬礼品。葬儀はその地域の文化様式が色濃く反映されますが、私はこれまで沖縄、奄美、大阪、金沢と多くの地域の葬式に出席しましたが、この東北地方は私にとって初めて。
 大宮から3時半、山形新幹線車窓から眺める米沢、赤湯、天童、山形、蔵王と続く山並と盆地平野に広がる家並み、葬儀のために降り立った“さくらんぼ東根駅”から葬儀寺までの道筋と家々のたたずまいに今話題の直江兼続の品格と格式を感ずるとは穿ち過ぎか。
 今回もまた“祝は呼ばれたら行きなさい!葬式は探してでも行きなさい!”という今年13回忌を迎える亡母が祖母の言い伝えとして、私に伝えた言葉を思い出しました。81歳で旅立たれた鈴木君・ご尊父様に改めてご冥福をお祈りします。
           

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 東㈱沖縄ツーリスト社長「早大で講演」

2009年05月10日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 連休明けの5月8日、早稲大学琉球・沖縄研で行われた東OTS社長の講演授業に出席しました。テーマは「沖縄における地域主導型観光の構築とグローバル化への対応」。要は自ら勤める沖縄ツーリストの経営理念とヴィジョン。
 東社長は早大からホテル・観光業界で“コーネル・マフィア”等とも呼ばれる其界メッカのコーネル大マスターに進学、履修だけに、数値目標等の経営方針を超えたサービス産業特性としての観光産業フロソフィーを視野広く展開。
実際、いくつかの大学で講師を務める一方、教育委員始め県観光行政の審議委員も務める有識ブレーン。先年は県主催のパネルディスカッシュンにも共演?昨年はWUB沖縄会長としてブラジルにもご一緒した縁。沖縄稲門会長として全国NO2の寄付金募集にも貢献!
「経営は論ずるものではなく、行うもの!」。現役社長が講演に飛び回る会社は“名挙がり、業績危うし”というのが自戒を込めた私見ですが、実はOTS、この不況の最中、増収増益、一人勝ち。沖縄に留まらずこのたび北海道ツアーヅ社設立とローカル企業を超えたGLOKAL事業を展開する明日の沖縄経営者リーダー。
 琉石、金秀グループ等沖縄県内のファミリー企業は親族による事業承継の成功事例が少なくありません。私は生前の御尊父・創業社長にもお会いしていますが、OTS社さんは失礼ながら“出藍の誉れ”とも言うべき出色事例か。もう一つ、私の偏見ながら県内では“銭儲けの宮古“に対し、士農工商的価値観の八重山はデレツタンチズム傾斜、商売蔑視、下手の風潮を感じますが、その中で八重山出身の東ファミリーは異端と呼ぶべき商売成功事例!しかも、東経営論はフロソフィカル、八重山色彩!    
          
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「独立、創業したらこそ!~」東大社員との出会い~

2009年05月10日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 東京は三田・札の辻の17坪のマンションで創業間も無く、リクルート社発行の求人誌で社員募集をしたある日、会社立上を手伝っていた前勤務先部下の女子社員から「東大生が応募に来ていますよ」と出先に電話が掛かって来ました。「東大?そんなバカな!」生来、学歴コンプレックスの私は「創業間もない社員30名に満たない零細企業に天下の東大生が応募するはずが無い」と思い「東大?何かの間違いだろう。東海か東洋(失礼!)だろう!応募書類を良く見なさい!」と電話口で怒鳴ったら「社長!やっぱり、東大と書いてありますよ」と件の女子社員も怪訝そうな声が返って来た。それでも信じられない私は「では、履歴書に卒業高校名を書いてあるでしょう。何処?」と重ねて問うたところ「麻布高校と書いてあります」と。
 これを聞いて動転、私は「間違いない!東大だ!」と確信、「直ぐ、戻るから、引き止めて!」と叫び、取るもの取り敢えずオフイスにとって返し、面接した応募者に理由を聞いたところ「なるほど!」と思う反面、半信半疑。
 彼に言うところによると、父親が司法関係の仕事をしており、その意向もあり法学部に進んだが元来理工系指向捨て難く、時間を見てはパソコンを触っていたとのこと。そのためか司法一次試験を合格したが、3度が3度とも2時面接で失敗、遂に親御さんも本人の希望を受け入れたとのこと。
 麻布、東大法学現役入学の彼、文理問わず優秀、適正試験でそれまで最高得点を記録していた前大阪事業所長を軽々越えた高得点を残し、未だにその記録は破られていない。
 やがて、彼はこれ又、浮世離れした異才・女子社員と社内結婚、共に渡英、彼の地の日系企業ITエンジニアを歴任、数年に一度ひょっこり連絡があります。実は彼のご尊父は最高裁の高名判事。後にお会いすることになりましたが、こうした希有な出会いも独立、創業したからこその縁と思い返すこの頃です。

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「大阪事業所長、もう一つの思い出!」

2009年05月06日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 当社発足間も無くから参画、勤続30年、55歳で先月末勇退した前大阪事業所長。そのソフトウェアエンジニア・スキルは、関西屈指のエクセレントカンパニーと言われた住友電気工業社のシステム事業部現場に於いて高い評価を得、当社の関西地域に於ける事業基盤構築に大きな貢献があったことは先にお伝えしましたが、彼の送別に当たり、もう一つ忘れられないエピソードを思い出しました。
 当社では入社に当たり、SE適正試験を実施していますが、私も一度試み、チャレンジしたこのテスト問題、合格ボーダーライン遥かに及ばなかった。ところが前所長、私が直接、面接、選考した応募者の中で、それまで前例の無い記録的な高得点を確保し、文系と理系はかくも違うものかとその差に驚かされたものです。後にカリスマ・プログラマーと言われる所以がここにあったのか。
 ところが、上には上がいるもの!後に100点満点のこのテストを前所長の記録を塗り替える98点の高得点を確保し、入社した社員がいました。当社では現在はこのテスト問題は採用していないものの、この記録は誰にも破られること無く残っています。この社員、残念と言うか、当然と言うか、入社数年を経ずして、社内結婚、退社することになります。
 この異数の才能の彼、どういう経歴か?会社を立ち上げて以来、顧客、社員と様々な出会いがあり、それが創業の一つの余得です。個人情報抵触スレスレになりますが、次回、私にとって忘れられない彼のプロフィルを紹介します。

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「大阪事業所長、ご苦労様でした!」

2009年05月06日 | 「美ら島沖縄大使」便り
 ゴールデン・ウィーク入り直前、久方ぶりに大阪事業所に出張しました。
当社大阪事業所の業績は最近でこそ静岡、沖縄事業所の後塵を拝しているものの、当社創業3年目の1980年の開設以来、長く収益面で全社をサポートして来ました。特に、多くの同業者が倒産、当社も3期連続の売上減を来たした90年代当初のバブル崩壊不況期、大阪は全社利益の大半を稼ぎ出し、当社の黒字維持に大きく貢献しました。
 その主要要因は創業以来の当社主要顧客御三家の一角をなす住友電気工業株式会社現場から制御システムのスペシャリストとして技術開発力を高く評価された上野大阪所長の功績でした。上野所長は私がスピンオフ独立した以前の勤務先の後輩で、当社では私に次いで社歴の長い生え抜き社員、いわば創業以来の功労者です。当初、一人で住電さんの主力工場である此花工場に出向、その実力を認められ、やがて仕事を請負、持ち帰ると共に後輩を育て、40名を越す今日の当社大阪事業所の礎を築きました。
 この度、諸般の事情により勤続30年、55歳で勇退、退社することになりました。この日、およそ半分の事業所メンバーが駆け付け、送別のアルバムとスピーチ、花束を贈り、長年の功績を称え、感謝の意を表しました。
 創業31年、これまでキャリア採用の60歳停年者を7人、慰労、送別しましたが、退社は入社以上にその仕様に感慨を催します。上野所長、長きに亘りご苦労様でした。今後のご健勝を祈念します。
 なお、後任の所長は当社入社一期生の鈴木マネジャーが事業所再生を期して着任しました。

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朝吼夕嘆

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