四二キロに飽きた人は一〇〇キロのウルトラマラソンやより過激なスパルタンに挑戦する。はては福岡~東京千キロに挑む人が出てくる。こうなればまるで叡山の修行だ。人々はゴールで手を合わせ涙を流し、千日迴峰を果たした阿闍梨のように完走者を迎える。
マラソンレースのプロセスは「生」が限り無く自らを「死」に追い詰めているようなものだ。ゴールの悦びは「生還」への歓喜に他ならない。それはエクスタシーに似ている。エクスタシーは癖になるからマラソンへの挑戦は癖になるに違いないのだろう。
近代のスポーツは多かれ少なかれ似たようなものだが、それにしても人類が本来何事かなすために与えられた機能としての「赱力」を自己目的化し「競技種目化」あるいは趣味にしているのは考えれば奇妙だ。

























