THE ELEGANCE OF SILENCE; 秘すれば花

2005-05-29 09:41:09 | 美術館・博物館・工芸品
6232eb40.jpg現代の我々が「名画」と呼ぶとき、その多くは18世紀、19世紀の画家たちの作をイメージする。あるいは、20世紀の画家の作であっても、作風は古典的な手法のことを指すと思う。20世紀は「戦争の世紀」とも言われ、そのほとんどの期間、世界のあちこちで、戦火は続き、芸術先進国である欧州大陸も陰惨な閉塞感が淀み、また実際に2度の巨大戦争で文化・芸術は死滅しかけた。20世紀の芸術的遺産は、残念ながら前世紀に比べ、不作だ。

そういう意味で西洋的な「現代芸術」を理解するには、相当の困難を伴い、かつ「美術鑑賞」の根源的目的である「快楽感」とは対極の気持ち(不快といってもいい)になってしまう。20世紀初頭の欧州の状況は、「過去否定」「虚無感」「未来予想の困難」という状況の中の産物であるのだ。

一方、現在、六本木ヒルズ・森美術館で開催されている、”同時代の東アジアの現代美術家”の作品は、この地域では現代美術が大衆側に回帰してきていることを示唆している。「秘すれば花」。日本、韓国、台湾、中国。26人の作品が展示されている。アートはキャンバスから飛び出した!というのが実感だ。難しいことばを使わずイメージするなら、小学校、中学校の夏休みの図工の宿題展覧会と言ってもいい(本当に)。私も、図工の宿題をその後も連続的に作り続ければよかった。6月19日まで開催中。

作品は平面的とは限らないので、現物を見てもらうしかないのだが、”アジアの活気”と”明るいメンタリティ”の作品を”手狭にごちゃごちゃ”並べてみれば、そこは”アジアンアートタウン”となる。ちょっと都会の疲れた感じが漂よう作品があったり、地方の農村のカゲをひきずる作品があったり、ただただ混沌をあらわす作品があったりしても、それらが我々の理解の内側にあるのは、完成した作品が成り立つ状況が、まさに現実の現代だからなのだろう。

そして、東アジアの特徴はディジタル文化。今回は映像を利用した作品は少ないが、SONY、SAMSONG、HITACHIなどの薄型テレビがあちこちで使われている。

さて、東京は東アジアの芸術発信地になれるかどうか。個人的には、かなり近づいているのかなって思っているのだが、その一翼はこの森美術館に負うところが大きい。2003年のオープニング「Happiness展」は、その宣言のような展覧会だったのだが、今後も、ずっとアジアンアーティストのサポートを続けてほしいと思っている。

一方、我々にできることは、良質なアートをさがして、チケットを一枚ずつ購入していくことにつきるのだけど。

ところで、本当に芸術の中心地にふさわしい都市には、芸術家達があつまるサロンやアーティストが大勢住み着くアパートなどが集まってくるものだが、東京では、とんと聞かない。もちろん東京都も何ヶ所かに文化発信地をつくろうとしていることは知っている(さすがに知事が芥川賞作家。芸術には目がない)。しかし、たぶん通いのアーティストは集まっても、居住までは難しいのだろうか。なにしろ住むには家賃が高過ぎる。さらに高い家賃を払える人の中からは、芸術家は生まれにくいというトレードオフ関係があるからだろう。その上、アジア系外国人は家を借りるのも困難だ。

知人の美術関係者に「森美術館はアジアに力を入れていて大変にすばらしい」と話をしたところ、ヒトコトで、「館長が外人だから」と一撃された。なるほど日本画壇はギルド社会だったことを忘れていた。そして、この森美術館が外人館長(デヴィッド・エリオット氏)を招聘し、展覧会中心で元気のいい文化発信地になっているのも、ちょっとした伏線があったことを最近、あるビジネス書で知った。

もともと茅場町にあり、親族争いの果て、九段に移転している山種美術館(日本画のコレクション)が、最終的な美術館の移転先をこの六本木ヒルズに決めていたそうだ。しかし、理由はよくわからないが、移転は実現していない。しかし、もし、山種美術館になっていたら(あるいは今後そうなったら)、六本木ヒルズにお似合いなのか、ちょっと考えてしまう。


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