霞町物語(浅田次郎)に感動できるか?

2005-05-28 09:42:28 | 書評
a79211a7.jpg浅田次郎に詳しいわけでは、まったくない。だから、「霞町物語」が作者の作品群の中で、どのような位置を占めるのか、先入観はない。自伝的短編集なのだろう。もちろん、自伝ではなく小説らしい書き込みは多い。8篇の連作になっている。そして、冒頭に置かれた「霞町物語」のその冒頭の一節、つまり作者がもっとも頭脳と気合いをつかう部分は、こう始まる。

 霞町(かすみちょう)という地名は、とうに東京の地図から消されてしまった。

霞町が消えたのは、例の町名整理の結果で、霞町のみならず、小山のような歴史的地名が消え去ったのだが、この一節で、「本小説は、思い出物語だぞ」、と読者に宣言をしているのである。そして、ムゲンやミスティが登場し、当時のどうしようもない出口のない東京の若者の苛立ちが、作者の意図の有無にかかわらず、どうしようもなく重複的に綴られていく。シンポジウムの基調演説のような一篇だ。

そして二作目の夕暮れ隋道は、作者お得意の、幽霊ものだ。短編集「鉄道員」は徹底した幽霊物語だが、本篇の幽霊も、「幽霊が出た」というより、「幽霊を呼んだ」という方が近い。そして、話の筋から「そろそろ出そうだ」と予感されるのであまり怖くない。

浅田次郎は安易に幽霊を引っ張りだすが、私は村上春樹の幽霊の使い方の方が好きだ。春樹の幽霊は、深く心の中に沈んでいるだけで、表には出てこない。ただし、ストーリーの底流に、あちら側に行ってしまった人たちからの霊的な引き込みを感じ続ける。まあ、個人的には、幽霊も第三者的に、「あっ、幽霊がいた」と脳天気に驚くという場合も実際あるのだが。

この短編集全体を読み、「勇気凛々瑠璃の色」と比較して、少し気付いたのは、「瑠璃色」はショートエッセイであっても、一作ずつ、起承転結型のイントネーション付きで、読者サービスは十分であるのに、霞町物語ではかなり平坦な書き方になっていることだ。案外、この「霞町」は彼の精神的中心地であり、人工的に加工してはいけない神聖なエリアなのかもしれない。

しかし、少し同意できないのは、彼にとっては霞町から広がる認識世界の外側には、神奈川や千葉といった川向こうがあり、その先には「農業国家」という田舎があり、さらに世界のはじっこには雪に埋もれた北海道の駅舎があるということのように見える点だ。彼に言ってもしょうもない話だが、地方都市(あるいは農村)の側から、東京という暗黒都市を眺めた方が、健全な精神のような気もする。

ところで、小説を離れて、この霞町だが、六本木交差点から渋谷方面へ向って、首都高3号線の下を歩くと自動的に到達する。首都高ができて、一気にみじめな日陰になった場所だ。現在は「西麻布」で、同名の交差点がある。

そして、若干移動したのだが、ピザで有名な「アントニオ」がある(あった)。初代ショート・ショートで有名な星新一先生がご愛用で、著書でもリコメンドしていたので、ずいぶん通ったものだ。隣のテーブルに中尾ミエを見たこともある。そして、ただの「ピザの店」だったアントニオもバブル時代の波乗りに成功し、現在はあちこちに出店し、「高級イタリア料理店」に大昇格してしまった。霞町からの出世物語は浅田次郎だけではないのだ。


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