花園神社は、もともと花園だったが

2024-02-26 00:00:58 | 美術館・博物館・工芸品
新宿付近に行った時に、立ち寄ったのが花園神社。多くの都内の寺社が貸ビルを建てて風情をだいなしにしているが、今のところ古典的な神社の姿のままだ。



新宿には元々、桜で有名な高遠藩内藤家の江戸屋敷があったが、1699年に甲州街道の第一番の宿場町ということになる。それまでの第一番は高井戸だったが、東海道の品川、中山道の板橋に比べ日本橋から遠すぎて不便ということで開設された。ところが、19年後の1718年には宿場指定から外されてしまった。享保の改革の一環で、宿場機能よりも岡場所機能が充実してしまって吉原筋からの取締り要請の声に押されたという説もある。

そうなると、町は徐々に寂れてしまう。そもそも甲州街道を通る人は少なかったのだ。復活開始は国鉄や地下鉄の駅の開業まで待つことになる。

一方、花園神社は徳川氏が江戸に入った1590年より前に、今の伊勢丹のあたりに吉野(奈良)から分かれてきたと言われる。先住者はそれなりに強いもので、幕府による江戸市中の区画整理によって、場所が僅かに移動して、徳川尾張藩下屋敷の一角を与えられた。現在の場所である。

ところが、その場所には美しい花が咲き誇っていたそうで、それが花園神社の名称に繋がった。神社に花園を造ったのではなく、花園を整地して建造物を建てたのかも知れない。現在でも花園は見当たらない。

土地柄、家内安全とか縁結びとか万事融通とか病気・学業・合格など身の回りのさまざまな具体的な願望を祈願する平和的な神社で、世界平和とか選挙必勝とかは荷が重いだろうか。

各種犯罪行為の成功祈願は、住所氏名と具体的な行為を記入して絵馬に書いておくといいかもしれない。

ついでだが、

花園ということばは、本来はプラス方向の単語のはずだが、最近は「頭の中が、お花畑」というようにネガティブな使われ方をしている。そういうことを言う人間ほど軽薄というしかない。花の命は短いわけで、花園を管理するというのは並外れた努力や精神力が必要なわけで、全国各地にある「花のテーマパーク」等を訪れる際は、そういった裏方の人たちのことを思い起こしていただきたいと、思う。

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