藤堂高虎家訓200箇条(2)

2006-03-18 09:34:34 | 藤堂高虎家訓200箇条
[家来常々召仕様之事 11条-20条]

家来常々召使いようの事

家来の使い方についての論考。中小企業の社長用という感がある。

第11条 第一惰をかけ諸事見のかし候事肝要也大それたる事有之時は其身の因果たるへし理非を以可申付然れ共助て不苦品あらは其儀にもとうし可然切ル手遅かれと申伝たり

家来には情をかけ、諸事見逃してやることが肝要だ。大それたことがあった場合は自分の不運(因果)と思うしかない。理由をつけて申し伝えるべきである。助けてもよいというのであればよく考えてそのようにして、切るのは遅くてもいいと申し伝えている。

経理部長が横領しても、告訴する前によく考えてみようということかな。まあ、当時の「切る」は本当に切ることだから、「切る前に考えよ」ということか。

第12条 家人に禄をとらせたる分にてハ思ひつかす奉公する上下禄ハ相応に取へし是大鉢也とかく情にて召仕へは徳多し一言にて命を奉る是情なり禄多くとらするとも命をすつるほとの事ハ有ましきか深く情をかけむとおもふ主人ハ用にも可立歟第一本意たるへし

家来に給与を払うのに、ひいきをしてはいけない。奉公人の給与の多寡はそれ相応に行なうべきだ。とかく、情をもって召し使えば徳が多い。一言にて命を預けるのは情によるものであって、給料を多く払ったところで命を捨てる程のことはないだろう。深く情をかけようと思う主人は物の用にも立つだろう。これが本意の第一である。

要するに、給料格差は付けてもイザという時に働いてくれないから、これといった部下には情をかけておけ、ということか。気になるのは「情にて召仕へは徳多し」の段。まず「仕」は仕えるではなく使うという意味で使用している。当時はそうだったのだろう。「徳多し」の徳というのが道徳的な徳なのか、現実的な利益を意味するのかは、よくわからない。200ヵ条読み終わった時にはわかっているとは思う。

第13条 人のささえ不可聞又横目ハわさハひのもとひ也たとへささへるもの有時ハささゆる人とささへらるる人と常の挨拶を開へし惣而何事も不聞様に常に仕置の分別無他

他人からの告げ口を聞くべからず。また、他人を監視することは災いの元である。例えば、告げ口する者がある場合でも、告げ口した人間とも、告げ口された人間ともいつも通り挨拶を受け、なにごともなかったようにふるまうべきだ

告げ口を聞くなとは書いてあるが、告げ口をするなとは書いてない(後段ででてくるかもしれないが)。そういう撹乱情報を使って、敵を貶めたことがあったかもしれない。とも思うが・・「ささへる=告げ口」感じがでている。小さな声で話す言葉=告げ口、と誤解されるかもしれない。横目=監視ということ。

第14条 召仕ものに能者あしき者有間数也其人々の得たる所を見立それぞれに召仕へは人に屑なきなり得ぬ事を申付るによりて埒あかす結句腹を立なり是主人の目かあかさる故なり

召し使うものに、能力のある者、能力の無い者はいない。それぞれの得意とするところを見立てれば人に屑はいない。できないことを申し付けて、埒があかなくなり、結局、腹を立てるのは、あるじに人を見る眼がないからだ。

ずいぶんと、心の広い考え方であるが、よく読むと、前段と後段では少し言うことが違う。前半部分では、殿様は心広くなければならない、と言っているが、後半では適材適所を探せという趣旨なのだろう。サッカーの監督に読ませて左サイドバックを探させなければ。

第15条 家来たり共異見申者あらは委聞へし世間の取沙汰を聞言と心得へし能聞届手前にて了簡して至極の所は用ひまたそはつら成所は捨へし必主人により内の者の分として主人江異見立する推参といひ機嫌あしき是天下一の悪人たるなり家頼主の為にならぬ者ハ陰々にて指をさし他の家来に語り伝へ名を立ル者数人なり我も家来も非本意常に情深き主人ハ家来名を不立他の家来主人の作法尋れとも不語主人の心持肝要の事なり

家来であっても、異なる意見があれば、詳しく聞くべきだ。世間の評判を聞くようなものだ。良く聞き自分で考え、良いことは実行し、またそうではないことは実行しない。あるじによっては、内のものの分として主へ異見を申すのを、でしゃばり(推参者)として機嫌を悪くするものがある。これは、天下第一の悪人である。あるじのためにならないのは、陰で指をさし、他の家来に語るものである。このようなことは自分も家来も本意ではない。常に情け深いあるじは、家来の名を言わず、他の家来もあるじの作法を尋ねられても語らない。あるじの心の持ちようが肝要である。

「推参」というコトバの意味は「でしゃばり」というような意味であって、漱石や鴎外は普通に小説の中で使っているが、「高級なでしゃばり」というような語感だ。ただ、それを嫌うものは天下一の悪人とは、すいぶん大仰な話である。現代で考えれば、日本の会社など悪人だらけで、誰が日本一の悪人か見分けがつかなくなる。

思い起こせば、藤堂高虎は10人以上の主君を乗り換えている。上司に恵まれなかったから渡り歩いたのかな、と彼の本質に近づいているのかもしれない。 異見というのが意見の語源なのだろうか、と、ふと考える。昔の武士は無口だっただろうから、意見が同じならば発言せず、異なる場合のみ発言したのだろうか。それなら会議も効率的に回るだろう。

第16条 士か士を仕ふ是時の仕合なり常々言葉きたなくいふへからす無成敗すへからす天道のかれかたし

武士が武士を使うというのは、時の成行きなので、常々言葉汚く言ってはいけない。しかし成敗しないのもいけない。天道は逃れがたい。

この条はやたらに難しいことを言っている。武士の上下は、「たまたまの運命」といい、やたらと相手を罵ってはいけないものの、やはり、世の中には天道があるので、悪い武士は成敗しなければならない。ということは、「天道」は「運命」より優位にあるということなのだが、天道の天とは何なのだろうか?武士階級より上を意味するものということまではわかるのだが、もっと後で考えることにする。

第17条 惣別人間たる者上下共心正敷して律義にして一言半句もうそを不可言人をうたかふへからす但時のはなし抔ハ偽ましりても苦しからさるハ是も人の害に成事いふへからす

すべて、人間は上下ともに心正しく律儀であって、一言半句もウソを言ってはならない。他人を疑うべからず。ただし、世間話などはウソが交じってもいいとは思うが、他人の害になることは言ってはならない。

まず、上下というのは上半身と下半身ということだろうが、「下半身でウソをつく」という艶な話ではなく、単に「裃(かみしも)=全身」ということではないだろうか。また、後半は妙な言い方で、ちょっとした与太話で盛り上がるのは構わないが、深刻なのはダメ、というようにあっさりと考えておく。

第18条 不断人の噂いふへからす人の善事ハ取上悪は捨へし人の悔も大形ハいふへからす深くいヘハ悪口かましく可成

いつも、他人の噂を言ってはならない。他人の良いことは取り上げ、悪いことは捨てるべきだ。また、他人が悔やんでいることも大げさに言ってはいけない。深い話をすると、悪口を言っているようになる。

どうも、このあたり、陰口シリーズになっている。主君を乗り換えたのも、彼の優秀さに、ねたみからくる上司への陰口が続いていたからなのだろうか。そう考えると、親しみもわいてくる。なにしろ東アジア人の三大エモーションは、「ねたみ」「おねだり」「よこどり」であるからだ(ジョーク)。

第19条 主人より我にあたることく又其下々へもうつすへし忝事あらは其ことくうつすへし無理なる事あらハ下々も迷惑に可存と心得尤の事也古人のいはく我身つめつて人の痛さを知れとなり

あるじから自分にするように、家来にも行なうこと。ありがたいこともその通りにする。無理なことがあれば、家来も迷惑であると心得ること。昔の人が我が身をつねって他人の痛さを知れといったのは、このことである。

「忝事」とは「かたじけないこと」だが、最近聞かない言葉になった。下請け代金や孫請け代金がどんどん削られていくようなことはいけない、そのまま「利抜き」をしないで下払いしなさいとでもいうことか・・

我が身をつねって他人の痛さを知れ、とは戦国時代より前から言われていたということだが、古来、こういうことは一向に進歩しないのが人の性なのだろう。我が身をつねる時は、手加減するからだ。(さらに、当時はツメルといったわけだ。ちょっと怖い。)我が身をつめられ、・・・なら正しいが、それなら自分が痛い。

第20条 家来夫々に惰をかけ目を明き召仕事主人の利口にあらすや主人情深きに下人邪の奉公ふりあらハ天罰のかれすたちまち悪出来て命を失ふ事眼前なり

家来のそれぞれに情をかけ、道理をわきまえて使うことは、利口なあるじということだろう。あるじが情け深いのに下のものが邪悪な奉公ぶりでは、天罰を逃れられずに、たちまち悪事が出現して、すぐに命を失うことになる。

この条も16条同様にやっかいだ。前段には、誰も文句が付けられない。適材適所で、上手に使えということだが、後段の「天罰逃れれず、たちまち悪事が現れて、命を失う」とは・・

「天罰」とは徳川将軍さまによる「お家取り潰し」ということなのだろうか。そして命を失う、というのは「殿、ご切腹を」ということなのか、あるいは単に天命をまっとうできないかということか。つまり、天=徳川将軍、あるいはもっと超越的な天命論者だったのか。さらに深く考えると、高虎の考え方と幕末の末裔とは解釈が違っていたことも考えられるわけだ。

もちろんまだ200条のうち20条までしか進んでいないので、結論は早すぎる。 そして、細々したことは書かないと言いながらずいぶん細かいことを書いているところから推測するに、高虎は自分の末裔たちの中には、時に愚か者が世襲することもあるだろうと、深読みして、余計なお世話のようなことまで残したのではないだろうかとも、現段階での推論としておく。

もやもやしながら、第2稿終了(つづく)


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