読んではいけないと思いながら読んでしまった『放浪記』

2010-09-21 00:00:06 | 書評
二年前に尾道に行った時に、この町はかなり林芙美子との関係を強調しているなあと思った。2008年5月13日『文学者の町、尾道』。

では、彼女の出世作である『放浪記』でも読んでみようかと思ったのだが、何か心の中にブレーキがかかった。

実際、中学生の頃に読んだことはあり、そのディテイルはよくわからなかっただろうが、触発され、いくつか小説や戯曲を書いた記憶がある。

今となったら何も覚えていないのだが、読んだ者の心を不安にし、何か次の行動(つまり放浪)を起こさせるような衝撃があるのだろうか。

とりあえず、突然に放浪を始めるわけにもいかないので、突然に放浪を始める可能性のある『放浪記』を読むことはやめていた。

が、最近、関川夏央氏の『女流』を読んでしまった。『女流(関川夏央著)

その中で、川端康成先生が、生前の悪評も、彼女が亡くなったのだから水に流してほしいという主旨の、文壇史に残る名弔辞を語ったことを知る。

それでは、読まないわけにはいかないじゃないの、ということになり、八重洲ブックセンターで探してみたが、この本を探すのに大いなる時間をつぶしてしまった。あまり読む人はいないのだろう。



それで、感想だが、林芙美子、全然放浪していないわけだ。もちろん彼女の住まいやパートナーは転々を変わっていくのだが、彼女本人のパーソナリティは全然変わらないわけだ。文学を愛し作品を出版社に持って行きは断られ、知人をみつけては借金を重ね、次々に現れる男性を食い散らかし、ダメ父を見捨てない母に愚痴を書き、ホステスの時代には同僚の平林たい子の結婚を愚弄し、そして、早い話が自分の身の上話を暴露して作家になったわけだ。ミーイズム。

だから、読んですぐに放浪に走ることには絶対にならないのだからもっと早く読み直した方がよかったのかもしれない。

でも、彼女が漂泊の作家であったというのは、ある意味当たっていて、それは彼女が町を変わる時に、「その町の思い出」というのを、全部記憶の中に入れてずっと忘れないということなのだろう。数多くの思い出を作って、忘れない。さらにその一部で文学を作る。

気になったのは、彼女が生活に苦しんでいるときに出会った人の多くが、石川啄木の詩集を持っていること。底辺の人たちのバイブル。現代では、そういうものは何だろう。あるようでないようで。「あさのあつこ」とか「ZARD」とかそういう感じだったが、なんとなく、この10年でそういうバイブル的な作家やミュージシャン(および作品)がなくなったような気がする。

本著は、現在は新潮文庫で読めるのだが、新潮社のことを短く書いた部分があり、ホステス時代の彼女が詩を書いて、文芸社を持ち回っていた頃、新潮社は彼女の詩に破格の6円(現在では6万円)を払ってくれたそうだ。該社は、今も金持ちのままだが、80年以上後に放浪記の文庫版で元金を回収しているのだろうか。


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