文学者の町、尾道

2008-05-13 00:00:02 | 市民A
fd693439.jpg尾道は、多くの文学者に愛されてきた。その理由はよくわからないが、まあ、天気が温暖で、食い物が旨く、そして小高い千光寺山にある真言宗千光寺の時の鐘の響きが文学脳を刺激するのだろうか。

尾道文学界の二大横綱といえば、林芙美子と志賀直哉だろう。作品に尾道が登場する。その他、中村憲吉他大勢が尾道に縁がある。しかし、共通的には、「尾道出身ではなく、尾道へ流れてきて長逗留、そして家を買ったりというパターンが多いようだ。

志賀直哉は好きな作家ではないが、「暗夜行路」は本当は「暗夜航路」ではなかったか?とちょっと勘を働かせてみる。志賀直哉の旧居は千光寺山の中腹にあるが、夜の海を見下ろせば尾道水道を行き来する漁船の光が蛍のように見えるはずだ。火と水と島影と山々、そして鐘の音である。


 六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。
 ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、
 また一つ、また一つ、それが遠くから帰ってくる。
 其頃から昼間は向島の山と山の間に一寸頭を見せている百貫島の燈台が光り出す。


そして、林芙美子は下関または門司出身で、自身、全国放浪を続け、この尾道に辿り着く。小学校から女学院までをここに過ごし、その後、上京し、誰にも書けない『放浪記』を発表。一躍、文壇の寵児となる。尾道には彼女の碑や銅像がたくさんある。多くを目にしたが、残念ながら感動的なものは見当たらなかった。まあ、秀れた文学作品の記念碑なんか、すばらしいわけないのだから、一枚の銅板に、『林芙美子の海』とでも刻み、海岸の舗道に埋めておけばいいのではないだろうか。


 海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る。
 赤い千光寺の塔が見える、山は爽やかな若葉だ、緑色の海向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている、私は涙があふれていた。


fd693439.jpgこの尾道文学二大横綱の年譜を丁寧にたどると、同時期に尾道にいたことになる。志賀直哉(1883-1971)は、1912年から1915年までの間、父と結婚問題で喧嘩して尾道に行く。『暗夜行路』は、前編が1921年、後編が1937年の発表。一方、林芙美子(1903-1951)は、小学校から女学院までを尾道で過ごすのだから、すくなくとも志賀直哉が尾道にいた頃は9歳から12歳。女好きの直哉も、まだ手をつけたりしてないだろう(後年、東京ではどうだったかは知らないけど)。『放浪記』は1928年に雑誌に掲載され、単行本になったのは1930年である。

そして、小説の『放浪記』は林芙美子のものだが、実際に転居を繰り返したのは志賀直哉の方で、人生26回も転居したそうだ。なにしろ、直哉は芙美子より20年前に生まれ、20年後に亡くなったのである。

次に、十返舎一九(1765-1831)。『東海道中膝栗毛』の作者は1802年に、この滑稽本で大当たりしたあと、『金比羅参詣』『宮島参詣』『木曽街道』など連発する。尾道で、一首詠んでいる。


 日のかげは青海原を照らしつつ
 光る孔雀の尾の道の沖


fd693439.jpg俳句ではなく短歌仕立てにしたのは、「一九が詠んだ一句」とか将来からかわれないための用心だったのだろうか。おそらく、『宮島参詣』を書く前の事前調査で立ち寄ったのだろうか。

そして、これらの文学は千光寺の近くに「文学のこみち」となって、碑文となっている。ここに記したもの以外にも多くの有名人が、海を見て何か唸っているわけだ。




その中に、なぜか一人、まったく文学と関係ない人物の碑がある。

直哉と芙美子が尾道文学の両横綱と書いたが、こちらは本物の横綱。

fd693439.jpg12代横綱、陣幕久五郎

悪戯に、自分の手と比べてみた。あまり変らない。ハハハ。

と書いて、本日のエントリはおしまい、としたかったのだが、「陣幕」という名前で急に気がつく。

調べると、同一人物だった。江戸時代の一番最後に起きた、東京三田の「薩摩藩邸焼討ち事件」。ここから半年で幕府は崩壊するのだが、陣幕は当時、薩摩藩お抱え力士。彼は、当日、危ないところで難を逃れ、神奈川方面に逃走し、薩摩藩船にて西日本に脱出、江戸の戦闘状況を伝えるわけだ。つまり薩摩藩の江戸スパイだった。

彼はてっきり鹿児島県出身と思っていたら、違っていたわけだ。出雲出身。出雲からは尾道に至る出雲街道がある。ここで相撲道に励んだ彼の、数奇な運命に、思わぬところで出くわしたわけだ。

これだから、私のブログ放浪記は、止められそうもない。

↓GOODなブログと思われたら、プリーズ・クリック



↓BADなブログと思われたら、プリーズ・クリック