ゴッホの絵が売れなかった理由?!

2005-05-22 09:54:39 | 美術館・博物館・工芸品
972008bd.jpgゴッホ展に行ってから一ヶ月くらい経ってしまった。ブログに書かなければとか思っているうちにゴッホ展は大阪・名古屋巡業に行ってしまうので、あわてて一筆。

東京国立近代美術館の機関紙である「現代の眼」の定期購読者であるので、当美術館で行われるゴッホ展に関する情報は少し前から知っていたのだが、こんな有名な画家については、誰も大胆な評論や解釈をしないのがしきたりになっているようなので、いくら読んでも実感がわかない。

そして、以前から疑問に思っていたことなのだが、ゴッホの絵は生涯1枚しか売れなかったといわれるのだが、「それはなぜだ?」ということは聞いた事がなかった。まして彼の弟のテオは画商である。

そして、なんとなく構築していた仮説があったのだが、それはそれとして、竹橋の近代美術館に行く。結構、賑わっているが、噂に聞く名古屋の生マンモスほどではないだろう。そして、今回の展示では、時代別に平均して出品されていて、ゴッホの技法の変化がよくわかるようになっている。

「美術史家」というのは、私の中ではかなり「無用の職業」なのだが、彼らの書いた数多い資料から、ざっとゴッホの年譜と画風を並べて考えると、生まれは1853年。そして、かなりの晩学で、絵を描き始めたのは1880年27歳。ブリュセルでのこと。まだ習作時代だ。そして、その後、エッテン、ハーグ、ドレンテ、ヌエーネンと転々とし、どちらかと言うと絵の習作をするという気持ちだったようだ。特に1885年32歳の時の自信作「馬鈴薯を食べる人々」の評判が散々だったことも、彼の気持ちを内向的にさせたような気がする。そして、商売的に考えれば、暗くさめざめとした「馬鈴薯」は売れないだろう。

そして、彼の絵に変化が現れるのは1885年11月から1886円3月までのアントワープ時代とそれに続く86年3月から88年2月までのパリ時代である。特に黄色系の色彩が多用され、人生に希望が生まれてくる。そして彼にとっての絶頂は88年2月から89年5月までのアルル時代。「黄色い家」とか「ひまわり」が代表作。そして、このパリ・アルルの間に彼の腕前は一気に完成してしまうのである。そして徐々にパリの若手画家として各種展覧会で名声を得ていくのである。それではなぜ、絵画は売れなかったのか?

私見だが、1888年頃からは、絵を売らないつもりになったのだろうと確信している。彼がこだわっているのは、展覧会であったわけで、絵を売ってしまうと、個展は開けなくなってしまうのだ。美術館の一部屋の壁面を全部使って展示した時の、絵画の並べ方とか気にしていたということなのだから、もう売る気にはなっていなかっただろうとは推定できる。そして、彼はサンレミで89年5月から1年間の間に量産体制に入るが、たくさんの糸杉を描いた後、結局は1890年にオーヴェールに転居し、ピストル自殺してしまう。

36歳。

そして、ゴッホの絵画は、周囲を圧倒する。部屋に飾るという気分にはなりにくいはずだ。どんな、金持ちの家でも、彼の絵画を1枚でも壁にかけると美術館になってしまうだろう。

しかし、彼が絵を売らなかったことで、コレクションの散逸も少なく、ゴッホは世界中の美術館を巡回し、現代の我々に大いなる精神の開放という恩恵を与えてくれたと考えればいいのであろう。

そして、わが家のハガキ版ゴッホコレクションは、また一枚の秘蔵品を増やすこととなったのだが、1枚100円の糸杉ハガキを2L版に拡大し、絵画タッチのフィルターで処理して写真用紙にプリントして、これまた100均ショップで買った額縁に入れてみると、何とか20,000円位の気分にはなるのである。


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