江戸時代の罪と罰(国立公文書館の資料)

2018-03-19 00:00:26 | 歴史
3年前に国立公文書館での特別展で、江戸時代から明治の初めに犯罪者への処罰がどのようにおこなわれたかの資料展示があり、行けなかったので後日入手した資料を、ひも解いてみる。戦後最大のテロ事件の結末が近づいているようなので、これらの資料の事を思い出した。

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資料は多岐にわたるのだが、まず大岡忠相のこと。「暴れん坊将軍」では八代将軍吉宗の右腕として活躍するのだが、後年「大岡裁き」として褒めたたえられる。その業績録については「大岡政談」としてまとめられているが、そのほとんどは完全な創作か、他人の業績だったそうだ。

なぜ、そんなことになったのかは推測になるのだが、以前に比べ、冤罪発生率が少なかったのではないかという仮説があるそうだ。実際には江戸の犯罪は町奉行所で裁き、重罪については町奉行所から、「こういう罪を犯したので、これこれの刑に処します」という案が老中に上げられ、それを評定所で前例に照らして判断するというプロセスだった。評定所に回ってくるのは、刑の軽重の判断が中心になっていて、奉行所の段階で冤罪が発生してしまえば、なかなか無罪にはならなかったようだ。

また、吉宗や忠相と同時代人の尾張藩主の徳川宗春だが、尾張藩では彼が藩主にあった時に死刑執行は行われなかったそうだ。やはり冤罪を恐れたらしい。

一方、幕末になると犯罪者増加で、牢獄は人員オーバーで病気が流行していて、判決の前に病死する者が多数にわたったそうだ。

また火事も多く、その際は切り放しといって、牢が開かれるのだが、最初は1657年に起きた大火の時で、「火事が収まったら再び集まるように、集まらない者は一族全員成敗する」としたそうだ。再び現れずに逃げてしまったものは一人だけだったと記録にあるそうだが、その後の一族全員の運命の記録はないようだ。

明治以降の動きとしては、火刑の禁止、北海道への流刑、死刑は斬首と絞首になり晒し首は廃止となった。その後、流刑は懲役刑になり斬首がなくなる。法律は戦後に大きく変わったが、刑罰の方は明治15年1月に改定されたものが現在につながっている。


ところで、森友関連決裁書が改竄された件だが、公文書の歴史の中では特記すべき事案と思われるわけで、当初決裁文書と改竄後文書について、是非とも国立公文書館に収蔵してもらいたいものだ。