銭湯と横浜(横浜市歴史博物館)

2018-03-18 00:00:37 | 美術館・博物館・工芸品
横浜の歴博で開催中の『銭湯と横浜』について。



まず最初に、横浜の銭湯といっても他の場所の銭湯となんら変わるところはない。銭湯の下駄箱とか、番台とか、内装とか展示されているが、昭和時代の銭湯というのは、おそらくそのまま現代の銭湯と同じだ。というか、そのままで営業するか、スーパー銭湯になるか、廃業するかの三択ということだろうか。

何年か前に夜行電車で早朝の東京駅に着き、御徒町駅近くの銭湯に行ったことがあるが、まるで古典的銭湯だった。

ということで、物証としての歴史的価値は感じられないのだが、書類や写真からみた横浜の銭湯史は、開港に伴い人口流入に伴い新設された公営、民営の入浴施設に始まる。次に関東大震災の後、震災復興として沿海部の埋め立てにより労働者が増加することにより鶴見を中心とした地帯に工業地帯に増加する。そして現代につながるのは第二次大戦からの復興という三段階だ。(この三段階発展は銭湯に限らない)



それで、開港後の銭湯だが、たまたまヴィルヘルム・ハイネという従軍画家が『ペリー提督日本遠征記』の中に残した絵画が残されている。なんと銭湯の中の絵なのだが、まず男女混浴である。さらに、ずいぶん立派な設備である混浴であることを除けば現代のスーパー銭湯と同程度にも見える。

しかも、ペリー提督は国交樹立の為に来日したので、まだ開港されてはいなかった時代なのか、あわただしく銭湯が早々と作られたのだろうか。今回の資料をよく読んだけれど、この絵画とペリーとの関連はよくわからない。ハリス公使の方なら判らないでもないが。

では、日本が混浴を辞めたのはいつの頃だったか、という疑問を考えてみた。いわゆる欧化運動の頃だったのだろうかと推測してみたが、そうではないようだ。というよりも現代でも法律上は混浴が禁止されているのかよくわからないわけだ。日本で国法として禁止されたのは、実は1791年に松平定信が男女混浴禁止令を出したのが最初で、明治になっても混浴禁止令は何度か出されていて、実質的に守られなかった。

いま、禁止になっているのは、行政指導とか、地方の条例ということ。旅館については条例の対象外のようだが、事実上そういう施設は積極的には作られないということなのだろう。

次に、戦後の横浜での銭湯経営について。経営者の多くが石川、富山、新潟出身者であるということだそうだ。特に石川県の能登半島出身者が多いとのこと。本ブログでも何回か登場した珠洲市のあたりの出身者が多いそうだ。

ではなぜ北陸出身者が多いのかという点について、納得できる説明はなかったような気がする。確かに、冬場は農業や漁業ができず、都会に働きに行くからというのは理由にならないような気がする。北日本はほとんど同じ条件だ。ともかく北陸出身の中に成功した人が多く、その人たちが仲間を集めたということらしい。