杉原千畝と命のビザ(VISAS for LIFE)

2016-10-16 00:00:05 | 美術館・博物館・工芸品
横浜市歴史博物館で開催中の「杉原千畝と命のビザ」を観に行く。杉原千畝については多くを語る必要はないだろう。戦前、日本とドイツが軍事協力した時、ナチスドイツによる民族浄化政策の犠牲になったユダヤ系市民の一部がポーランドからリトアニアへ脱出したあと、リトアニアのカウナス領事館の領事だった彼が、本国からの指示を無視し、日本通過ビザを発給し続け、およそ6000人以上の命を救ったわけだ。数字がはっきりしないのは、本来は記帳し手数料を取らなければならないのだが、その時間も惜しみビザを書き続けていたそうだ。




その行為は長く歴史に埋もれていたが、1968年になり彼が救助したイスラエル人が隠居中だった彼を探し出すことで現実世界に浮き上がってきた。68歳の時だ。彼は1900年1月1日の生まれだ。しかし日本政府は動かず。国内の保守派からは逆に非難すら受けることになる。そして、イスラエル政府が動き、1985年に感謝状が贈られるが、もはや動けない齢になっており、翌1986年に他界。もう少し前に日本政府が動けば、ノーベル平和賞を受賞したかもしれないと思える。(佐藤栄作氏1974年受賞)

現在、脱出した6,000名は、その子孫が40,000人を超えているそうだ。

sugihara1


本展が横浜で開かれる意味は二つある。一つは、(神戸出身だが)横浜の埋蔵文化財の撮影を続けられていた寿福滋氏がライフワークとして彼の生涯を撮影していること。もう一つは、ポーランドに始まるユダヤ系市民の生きるための長くつらい旅路の中に「横浜」という都市が含まれるからだ。

彼らはどうやって生き延びたのか。

ポーランド→カウナス→モスクワ→(シベリア横断鉄道)→ウラジオストック→敦賀→神戸。

sugihara2


そして米国ビザを持つものは、神戸から横浜を経由し米国方面に旅立つのだが、当時は(今も)難民受入れ数の各国別の枠があったそうで、はみだしたものは上海の疎開地に送られ、窮屈な生活を送り日本の敗戦を待つことになった。嫌でも死ぬよりマシだ。戦後は多くはイスラエルに行くことになったようだ。