多崎くんは、ワタナベ君の親戚か

2013-05-09 00:00:38 | 書評
tsukuruいまさら、村上春樹の新作について書いてもしょうがないかもしれないが、一応小説は全作品を読んでいるので、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という長すぎて色々と困ることが多い題名の小説について。

読んですぐに気が付いたことがいくつかあって、順にいうと、『ノルウェーの森』の後編というか、書き直しというか類似があるように感じている。

まず、高校の時の男女5人(男3女1)のグループが、その後バラバラになっていくというのは、ノルウェーでは3人グループだった。ノルウェーではワタナベ君というのがいて、やや優柔不断型で人生の謎をそのままにしてしまうタイプで、今回の多崎つくると兄弟みたいによく似ている。

白根さんは、ノルウェーでは直子にあたるのだろうか。途中で退場するのだが、その理由は、読者に対してははっきりとは語られない。

ノルウエーを思い出してもらうとわかるが、ラストシーンで本編が国際線の機内での回想であるということに帰結するのだが、『多崎』でも彼の自分探しの旅の途中で重要なことを機内で発見する。一般に若い人による自分探しの旅は青い鳥を見つけることができないのが常だが、多崎が探しているのは灰色のケダモノである。あるいは彷徨う霊魂。主を失った六本目の指?

何かを見つけられるのかどうかは、読者が次を自分で考えなければならないが、そのためには、灰色の親子を探す旅に出なければならないのだが、なんとなく付き合いたくない精神トリップになりそうだ。

ところで、この手の小説は自分でも書けるような気がする。なんだか謎めいた記憶は沢山あって、記憶の中に事実なのか夢なのかはっきりしない黒い塊がたくさんある。もっとも、現実的に暗闇とか無人の廃墟とか、屋根裏に潜り込んだり覗き込んだりすることが好きで、そういうところには、世界のどこにもつながっていない(つまり言葉や記号化することができない状態)ゾーンが結構多い。

もちろん、夢であってほしいという現実もあるのだが、そろそろ自分史の中の古文書類なども紐解きはじめているのだが、存在してもらいたいものは存在しないし、消えてなくなってほしいものほど、他人がよく覚えているものだ。

そして、色の問題。この小説は登場人物に白とか青とかの色の入った苗字が当てはめられているのだが、そして重要な役割を与えられている(後半の方ではそうでもない。作者の気が変わったのだろうか)。外国語に本小説を置き換えることは極めて難しい。例外なのが、日本を仮想?敵国にしている国の人。もうノーベル賞のために、翻訳しやすいように書くのはやめたのだろうか。


ところで、村上春樹の小説を読んだ後、登場人物のことなんかが夢の中にあらわれて、勝手に後編ができてしまうことがあるのだが、今回も、自分の過去の人名録の中から色の苗字の人たちが夢の中に登場した。(亡霊みたいだが、亡霊は蛇なみに嫌いだ)ただ、抜けている色もあるので、基本カラーについて思い出してみた。一応、実名。

 赤井君・・高校時代の同級。成績優等生みたいな感じだが、実際には全然違う。
 青島君・・大学のゼミ。東海地方のマスコミに就職。
 みどりさん・・数人知っている。美人かその対極かのことが多い。
 黄先生・・黄の字のつく人をやっと思い出す。虎の門病院の整形の先生。小指のX線写真を写した記憶がある。
 紫という字について記憶整理に手間取っていたのだが、ついに思い出したのが、自分のこと。以前、「村崎真吾」というペンネームを使っていたことがある。「紫」では有名すぎる大衆女流作家のマネになる。もし、大作家になっていたら、図書館では春樹、龍の後に並ぶはずだった。

そういえば、ノルウェーじゃなくフィンランドに以前の友人だった女性を多崎が探しにいくシチュエーションになっていて、私の同級生の女性もフィンランドに住んでいるので、何か共通点でもあるかな、と思っていたが陶器を焼いたりはしない。10年ほど前に日本で再会したが、単におしゃべりで酒飲みだった。小説性はない。