ミュシャ展

2013-05-19 00:00:21 | 美術館・博物館・工芸品
六本木で開催中のミュシャ展に行くも、期間のほぼ終わりということで、慌てて駆け付けた人でかなりの満員だ。ある意味デパートの完全閉店セールと同じようなものだろうか。いや、デパートには開店期間という概念はないのだから、ただのバーゲンハンターしか集まらないのだから、それよりはずいぶんましだろうか。

ということで、実物に接近して筆のタッチを見ることはできないし、立ち止まることすらかなり難しい状態だったのだが、アール・ヌーボーの旗手の一人としてのミュシャの価値というだけではなく、彼の芸術家としての流れというようなものがなんとなく感じることができた。

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まず、チェコ出身の彼が、売れないポスター画家として悪戦苦闘の末、辿りついたのがパリ。そして偶然にも(年末の駆け込み仕事で、有名画家がいなかった)手掛けた仕事が売り出し中の舞台女優サラ・ベルナールの芝居劇用のパスター描きの仕事だった。


そして、一夜にしてミュシャは当代随一のポスター描きになる。

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そして数々の作品を描き続けるのが彼の人生の前の半分。今回のミュシャ展には240点もの作品が並んでいるのだが、中欧風の薄茶色風の色使いで、特にフランス的な女性を描いていく彼の技法は現代でも多くのファンが模倣しているのだが、やはり元祖は一味違う。

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ところが、有名になった彼は、そろそろパリを離れていく。きっかけになったのは故国の大作曲家であるスメタナの「わが祖国」を聴いてからということらしい。確かに一国を一つの曲で表現するということでは、この曲の説得力は巨大だ。そして、第二の人生で彼は画家を始めたのである。

個人的には、ミュシャは結局、スメタナにはなれなかったのかもしれない。彼の意識はチェコ人であったかもしれないが、彼の技術はフランス人だったのだろうか。あるいは、彼が描こうとしたチェコの歴史というのは、絵画で描くには残酷すぎたのかもしれない。

そして、第二次世界大戦の初期段階でチェコはドイツの侵入を受け国家喪失の運命に至る。悲運の中でミュシャの人生は1939年に尽きたのだが、仮にもう少し余命があったとしても、ソ連弾圧下の共産主義チェコスロバキアの姿を見るだったはずだ。

一方、サラ・ベルナールはミュシャに先立つこと16年、1923年に偶然にもミュシャと同じ78歳で他界し、フランスは国葬を行っている。ミュシャが葬儀に駆けつけたかどうかは不明だ。