いきなり維新を目指しても

2013-05-21 00:00:14 | 市民A
そういえば、明治維新というのは、その前の15年くらいの間に、日本中が思想の対立状態になり、尊皇攘夷運動が叩かれて、多くの思想家が斬られたり、いつの間に討幕派に寝返ったり、最後まで武士の美学に突き進んだものがあったり、そういう方向不明の血みどろの戦いの末にゲームの最後に伊藤博文が登場して、初代内閣総理大臣になっていくのだが、その血みどろ部分を省略していきなり「維新」と名乗って総理大臣を狙おうというのだから、かなりの無理感が漂っていた。

安倍総理が言うように、「私も長州(山口県)選出の議員なので、あんなもので「維新」を名乗るのでは困るのですが・・・というのが、当たってるようにも思える。


さて、前の総選挙の頃に、彼の才能は市長・県知事止まりだったのかと思っていたのだが、今回の大量の「失言群」とその後の「ぶざまな修正発言」を考えると、政治家という職業を、彼は「演説家」と考えているのではないかという疑問が感じられる。

「自己の意見を表現して、同感する人たちでグループをつくって議員にしたり、支持者を増やしていく」というタイプで、オバマにもそういう面は感じられる。例は悪いが第二次大戦の時には、そういう人たちが各国にあらわれてそれぞれの国民的支持を得ていた。

ただ、戦後日本では、一般的には政治家は「国民のために働く」ことになっているので、自説とは違っても国益という名の元に、国民のためにならないと思う時には、あえて発言しないということになっている。

そうではないのは野党で、元々国民のために働こうにも、たいした出番がないため、結構、大胆な失言をすることがある。ただ、もともと国民のために働こうと思っても野党なので何もできない、というのには同情もできるが、野党でも与党でもいつも好きなことを言い続けて困ったことになる政治家もいて、こういうジコチューの代表が、小沢氏とか、この橋下氏ということになるのだろう。

そう思うと、菅氏の場合は、マインドは国民を向いていたものの、技量不足ということだったかもしれない。鳩ポの場合、国民のためではなく「世界中の人類の平和」を目標にしたのが、数百年早かったのかもしれない。では安倍政権はどうかというと、とりあえず、無難な走行であるのだが、巨大な自爆装置がついているとしたら、稲田爆弾だろうか。「日本を守る」ために政治家になったそうだから、稲田爆弾が炸裂していないのが、もっとも予想外なのだが、実際のところ彼女が爆発した場合、政権は1日で破綻するような気がする。それでは日本は守れないということになるかもしれないわけだ。