本質的には倉敷ネタではないのだが、倉敷物語館で、最近発見された与謝野晶子の未公開歌稿が展示されていた。同業者の薄田泣菫に原稿を送って、各誌や歌集といった発表方法について任せていたようで、その中で未発表のままになった歌が16首あったそうだ。
それに、彼女の生原稿である。
一応、画像については、そのままの形では公開しないでほしいとのことなので、画質を落としているが、かなりの速度で原稿を書いていたようで、達筆とは言えない感じだ。
この原稿では、最後の二首が未発表ということらしい。
わが世をばうちまどふことしきりにも續(つづ)きし頃のおぞましき日記(にき)
生まれたる日をば悲しと何の云う一萬日の時の語れる
どちらも、なかなか直情的で晶子流である。感覚的には、「すさまじい」ということではないか。
一首目では「うちまどう」という困窮感のある動詞を用いて過去の日記を前にして、辛かった一時期を回想しているわけだ。
二首目では、生後一万日(27歳4ヶ月位)になった自分の生涯が、ずっと悲しい思い出ばかりだったという詠嘆の歌である。
一首目では過去の回想ということで、現在の自分と距離をおくことによって救いを得られるが、二首目では救いようのない絶望感が伝わってくる。
未発表作が「駄作」でなくて良かったなあ、と思うわけだ。
それに、彼女の生原稿である。
一応、画像については、そのままの形では公開しないでほしいとのことなので、画質を落としているが、かなりの速度で原稿を書いていたようで、達筆とは言えない感じだ。
この原稿では、最後の二首が未発表ということらしい。
わが世をばうちまどふことしきりにも續(つづ)きし頃のおぞましき日記(にき)
生まれたる日をば悲しと何の云う一萬日の時の語れる
どちらも、なかなか直情的で晶子流である。感覚的には、「すさまじい」ということではないか。
一首目では「うちまどう」という困窮感のある動詞を用いて過去の日記を前にして、辛かった一時期を回想しているわけだ。
二首目では、生後一万日(27歳4ヶ月位)になった自分の生涯が、ずっと悲しい思い出ばかりだったという詠嘆の歌である。
一首目では過去の回想ということで、現在の自分と距離をおくことによって救いを得られるが、二首目では救いようのない絶望感が伝わってくる。
未発表作が「駄作」でなくて良かったなあ、と思うわけだ。