西郷隆盛像

2010-09-20 00:00:39 | 歴史
こどもの頃に、一度か二度、上野の西郷隆盛像を見たことがある。そのイメージを持ったまま、数十年を経て、再会。



う~ん。

イメージの中の西郷像の方が大きかった。引き連れている犬も、獰猛なシェパードだったような気もしていたが、もっと小型のおとなしそうな犬種だった。

まあ、こどもの頃は自分の体も小さいから、銅像が大きく見えたのだろうか。

作者は高村光雲という大御所である。

ところで、少し思ったのだが、西郷の歴史的評価のこと。

歴史上の人物の評判は、歴史の中で、高まったり失墜したり変化するのは歴史を見れば明らかだ。

となれば、西郷の評価は、最後の一暴れともいえる西南の役で、地に墜ち、その後、西郷を評価する時代にはなっていないような気がする。

たまたま、ごく最近になって、彼が明治の超初頭に行った廃藩置県とか義務教育制とか徴兵制といった政策に関して再評価の動きがあるようだが、かなり限定的だろう。

しかし、この銅像だが、完成したのは明治31年ということで、西南の役から21年後である。かなり早期に名誉回復がなされたということだ。

もっとも、もともと皇宮内に立てようとしていたものが、上野になり、さらに浴衣姿というカジュアルウェアになった。

その辺については、何らかの政治的な判断があったのだろうが、調べてみても歴史の裏側に埋もれていて、よくわからない。歴史学者の怠慢だろうか。


ところで、本来、上野という地名の語源は、ここに徳川家康のブレーンだった伊賀上野を本領とした藤堂高虎が居住していたことによるわけで、高虎の像もなければ寂しいような気もする。高虎は190センチ近い大男だったそうで、180センチ弱の西郷とは横に並べにくいのかもしれない。何となく、西郷も高虎も実権を持ちながら妬まれるという役どころにいたわけで、小沢一郎みたいなものかもしれない。


そして最後に余談だが、「除幕式」というコトバは、西郷像が完成し、一般に公開されるにあたって明治31年12月18日に開かれた儀式の時に、初めて使われたそうだ。

当時の新聞で探せば、正統的除幕式なるもののシステムがわかるかもしれないが、そこまで調べる熱意はない。