古都(川端康成著)

2010-03-01 00:00:17 | 書評
ninnaji今、首都圏のテレビにはJR西日本のCMが流れている。京都市街の北側、御室(おむろ)にある仁和寺境内にある遅咲きの桜である『御室桜』を見に行こうということである。

実は、昨年の4月の初旬に、当の仁和寺に行っている。実は、宗派が真言宗御室派なのであり、その本拠がこの仁和寺なのである。真言宗というのは仏教の中でも難解(密教)であり、空海以降(実は、彼はまだ高野山で生きていることになっているのだが)あっという間に分派してしまう。その一つがこの御室派である。

桜の名所であり、運がいい年はソメイヨシノと御室桜の両方の満開をみることができるそうだが、昨年行ったときは、二つの桜の開花の中間時期で、まことに運が悪かった。桜の木々の中を歩き、現場に残ったわずかな遺留品を探し求めるが如くといったところだった。

そして、テレビCMでは満開の御室桜が紹介され、その中で、川端康成の『古都』が引き合いに出された。思えば、かつて『古都』を読んだのは中学三年か高校一年の時だったはず。川端康成の主要作品は、そのころ読んでいて、やはり、『雪国』と『古都』の二作の持つなんとも妖艶であり優雅であり、あるいは残酷な感動は他の作品から抜けているな、と感じていた。

しかし、『雪国』とは異なり『古都』は、少し怖いところがある。人間性の奥に潜む醜さを、うっすらと全編を通じ漂わせている。『雪国』は何度も読み直しているのに対し、長く『古都』を開いたことはなかった。

前振りが異常に長くなったが、要するにテレビCMを見て、読み直したくなったということ。

実は、この小説、ミステリではないが、筋立ての中に、徐々に読者にある情報が漏れだしていく部分がある。主人公である千恵子の出生後の秘密のような話である。きわめてうまくできているのは、秘密の全容を知る人間は、現存せず、いくつかの断片的事実から、わずかずつ真実があらわれていくわけだ。

kotoだから、ここにそれを書いてしまうと、読書の楽しみが50%減になってしまうので触れない。

しかし、読んでから数十年も経つと、そのプロットをほとんど覚えていないのであるのだが、逆に、小説の後半には、千恵子の近親にあたる娘が登場することは、覚えていた。苗子である。そして舞台は仁和寺ではなく北山の杉林なのである。

はじめて読むのではなく、二度目に読むにしては多くの部分を失念した状態で読み進むというのも、あまりない経験だが、読み進むにつれ、徐々に思い出してくるわけだ。そこが非常に怖いところで、読み進むに従って、なかなか文字を追えなくなってくるわけだ。

かなり時間をかけて、ついに読み切る。

最後に、作者自身によるあとがきが書かれている。昭和36年末から3ヶ月強の期間、朝日新聞の連載小説だったそうだ。当時、川端自身、睡眠薬を多用していて、薬を辞めれば禁断症状で入院し、10日ほど意識不明に陥ったりしていたそうだ。

そのため、『古都』執筆中も睡眠薬を常用していて、「うつつのない状態」で書いたため、校正に多くの時間が必要だったということである。

全編を通して感じられる静かであるものの異様な雰囲気は、このせいなのだろう。

なお、文庫の解説は山本健吉氏によるもので、川端は「ヒロインたち」を書こうとしたのではなく、「古都京都」を書きたかったのだ、という説なのだが、私にはとうてい同意できない。

前に戻って御室仁和寺の桜であるが、小説に登場するのは、ほんの一瞬で、筋立ての本流とは特に関係ないことだけは、書いてもいいのだろうか。