広島城は三代目

2008-04-30 00:00:48 | The 城
fd693439.jpg広島市に1時間ほど滞在することになった。そして、迷うことなく広島城に向かう。何度も広島に来ているが、記憶にない。初めてか、数十年ぶり。以前は、城や天守閣の趣味がなかったのだが、たくさん見ていると、色々と感じるところができている。

まず、大きな特徴が濠である。四方が水濠で、城内に向かう経路は南側からの一ヶ所だけ。ゴルフのアイランドグリーンみたいだ。周囲が水濠であっても、入口は二ヶ所という城が多い。一ヶ所では逃げられない。なぜ、一方だけかといえば、ここに城を築いたのが「毛利」であったからだろう。巨大海軍力を誇った毛利家は、大田川の河口の中洲に城を築き、いざ包囲された場合は、一旦篭城し、味方が周辺海上から一気に反撃に出るのを待つ、というコンセプトだったのだろう。そのため、海抜ほぼゼロメートルの土地に、周りの島々からの狼煙が一望できるように、高い天守閣を築く。初代の広島城は慶長4年(1599年)に完成したとされる。

そして、城主、毛利輝元は、翌年、関が原の戦いで西軍の中心人物の一人に担がれるが、たいして軍を動かさず、結局、西軍敗因の一つになった。思うに、新居にもっと長く住みたいと思ったので命が惜しくなったのだろうか。結局、毛利家は滅亡を免れ、長州の小藩に落ちぶれる。

江戸初期にこの地に転勤したのが浅野家。浅野長政は、豊臣秀吉の家来の時はナンバー5~10くらいの地位だった。東軍に入ったおかげで、まあ無難な地位を幕末まで確保した。さして裕福な藩ではなく、幕末の藩主の朝食の献立も、焼き味噌と豆腐程度だったそうだ(焼き味噌って何だろう?)。

今、考えれば、最大のピンチは「忠臣蔵事件」。別藩ではあるが、親戚筋の赤穂藩の小大名が、江戸城で一暴れする。色々と恨みがあっただろうが、考えられる範囲でもっとも不都合な場所で刃傷沙汰を起こす。本当に恨みがあるなら、奉行に決闘を申し出ればよかったはず(まあ、部下が引きとめただろうし、奉行所が門前払いしたかもしれない)。結果は、腰に差した二本の刀のうち、なぜか短い方を抜いたため、歴史の通りになったのが、本家浅野家は冷や汗タラリだっただろう。子会社の人事管理ミスだ。幕府も、浅野家をつぶす気はなかったようで、城の受け渡しなどを本家に依頼している。

そして、この広島城は、明治・大正・昭和とその威容を誇っていた。今は、平和都市というが、昭和20年までは「軍都広島」だった。昭和20年8月6日、原爆炸裂により倒壊する。名古屋城もそうだが、空襲の目標に天守閣が使われていたはずだ。全国の多くの天守閣は昭和20年に焼失している。

ところで、現在の城は「三代目」であるというと驚くかもしれないが、原爆で倒壊したあと、昭和26年に何らかのイベントが広島市で行なわれるに合わせ、突貫工事で組み上げられたそうだ。オリジナルの80%位の大きさ。そして、それでも超巨大な構築物は1年以内に解体されたそうだ。なんともったいない話だ。

その後、昭和32年から33年にかけて、現在の広島城が、江戸時代の城郭と外観・サイズを同一にして再建される。その時、賛成論だけでなく反対論もあったそうだ。主な反対の理由は、「多額の資金が必要」「平和都市に戦闘用の施設はふさわしくない」「原爆で消滅した、という歴史的事実の隠蔽にあたる」ということだそうだ。いずれも、正しい。が、再建された。

fd693439.jpg建物は鉄筋コンクリート造りだが、内部にエレベーターはない。それがいいのか、悪いのかよくわからない。外壁には木材が張られていて、往時の姿をできるだけ再現しようとしているが、若干の違和感が漂う。本来、漆喰で塗られていたはずの城壁の部分が、コンクリートなので、微妙な光の陰影がない。つるっとしている。手造りの感じが足りない。ちょっとした工夫で、もっと風合いが湧き出すものを、ちょっと残念だ。

この城のベストショットは、北側から水濠越しに朝夕のサイドビューだろうが、天守閣から南側へ出て、濠を半周する元気はまったくない。


しかし、「おおた流お城鑑賞法」の一つに「石垣は下から見る」というのがある。この城を取り巻く長い石垣の南側の側面が総じて黒っぽく汚れているのは、おそらく南側の原爆爆心地からの爆風の影響だろうか。一箇所、顕著に左側が黒く、右側が白い部分を発見した。この部分を遠目に、石垣の下側から「自分で石垣を築くように」眺めると、右側に違和感を感じる。おそらく、爆風で崩れたか、黒くなりすぎて鑑賞に堪えないという理由で、再建時に組み直されたのではないだろうか。

そして、大いそぎで、次の目的地、呉に向かう。

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