横浜開港資料館で

2008-04-20 00:00:39 | 美術館・博物館・工芸品
c963d2f1.jpg横浜関内の横浜開港資料館で「横浜開港150年周年記念・ハマの謎解き展」が行われていたのは知っていたが、多忙に終われ、閉幕(4月20日)1日前にすべりこんだ。

150周年記念だから、150の謎解きかと期待していたが、謎は9つだけ。期待はずれというか、事前にチラシをよく読めば解読できたのだから文句はつけられない。しかも入場料は200円なのだから(本当は、別の展覧会に行ったついでなので)。

9つの謎は、「なぜ、関内というのか」とか「伊勢崎町の名前の由来」とか「中華街の町はなぜ、街路の向きが他の地区と違うのか」などであるが、答えにサプライズはない。あまり新しい研究はしていないようだ。

横浜は開港150周年記念行事だらけで、地方公務員の手に余るのだろう。5月にはアフリカ月間。

そして、この150周年の元になったのは、日米修好通商条約(1857年)だが、それに先立つこと3年。日米和親条約が、この開港資料館の敷地で調印された。順番に言えば、ペリー黒船で登場(1853年)、翌年(1854年)和親条約、1857年修交通商条約、そして10年で、幕府崩壊となる。

c963d2f1.jpgだいたい、モスクワ五輪の10年後に体制が崩壊したことを考えても、外国との交流拡大から国内体制崩壊までの期間は10年ということだろう。次は・・(もっとも、中国が民主化して政治的安定を得たとすると、さらに10年後には「アメリカよりも大きなアメリカ」になっていて、ちょっと困ることになるかもしれない。その時、日本もロシアも「EUのドア」を叩いているのかもしれない。)


そして、なぜ、この場所で調印が行われたかと特定される理由は、建物の中庭にある「玉楠の大樹」。条約締結を描いた絵図に、この玉楠の大木が描かれている。しかし、実際に描かれている大樹は、現在の幹よりも太いのである。その理由は、関東大震災。この一帯も横浜市内からの大火のせいで建物は崩れ、そして焼けてしまう。この玉楠も根元からすべて焼失してしまったのだが、何しろ、燃え残ったのがほとんど切り株状態だったのだろう。それが幸いして、放置されている間に、若葉が芽生え、現在の姿にまで復活。

ただ、この玉楠、素人目にも樹勢がイマイチである。幹の表面には亀裂が目立っている。遺伝子的に寿命に近づいているのかもしれないが、むしろ建物の中庭という日当たり、風通しの悪い場所という条件のせいではないだろうか。天災を生き残って、人災で斃れるというのでは本望ではないだろう。

ところで、人災といえば「日米和親条約」の日本語原本は焼失してしまったそうである。幕末の江戸城火災が原因といわれる。しかし、日米修好通商条約の方は現存している。この差は何だろうか、というのは、昨年から考えている謎である。幕末の江戸城の火災の原因はほぼわかっているのだが、うかつに書くと、鹿児島県出身者から怒られそうである。


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