大坂城登城

2007-02-11 00:00:10 | The 城
42280616.jpg大阪に寄ってから1ヶ月ほど経って、今更ながら大坂城(通例にならい、「大坂」と書く)について書いてみる。先日、大阪国際女子マラソンで城内をランナーが走っている時に、起伏が大きく11メートルの高低差があると紹介していたが、それにはわけがある。しかし、一方、この大坂城というのは、大方の城マニアからは「キワモノ」と考えられている。別に鉄筋コンクリート作りだからということではない。相当のアバウト感覚で再建されたからである。歴史無視。

別に、私は復古主義者というわけではないので、昔あったものは、必ず現代に建て直すべきだ、というような怖いことを言うつもりもない。様々な理由で日本全土の数百の天守閣のうち、現存するものは僅か12。本丸を残すものは、さらに少ないかもしれない。無くなったのには、それぞれ理由はあり、それも歴史である。そして、もしも民意として再建しようというなら、少しばかりは、以前そこにあった物体を調べてから設計するのが本筋ではないだろうか、とやや保守的に考えてみる。存在しないようなものを、あたかも歴史上の存在のように捏造するのは、趣味が合わない。実は、大坂城は、その例なのだ。大阪人特有のアバウト感覚なのだろう。

まず、簡単に大坂城の歴史を書くと、

1580年 信長がこの地にあった石山本願寺を攻め落とす。
1583年 天下統一した豊臣秀吉が浅野長政に命じ、築城を開始。
1585年 秀吉入城。(初代大坂城)
1615年 大坂夏の陣で爆発炎上し、灰燼となる。
1620年 徳川秀忠、藤堂高虎に命じ、築城を開始。
1629年 家光の代に完成。(二代目大坂城)
1665年 落雷により天主閣が炎上。再建されず。
1867年 慶喜、長州攻めに失敗。城内に逃げ込むが、江戸に逃走。本丸炎上し廃城。
1928年 大坂城再建工事開始。
1931年 完成。(現在の三代目大坂城)
1945年 空襲にも焼け残る。
1997年 耐震構造に改装。現在に至る。

42280616.jpgまず、初代の大坂城は秀吉の全盛期に完成。現在の大坂城の4倍の敷地面積で、城内に武家屋敷や商店街があったそうだ。ようするに欧州の要塞都市のような構造だった。天主の高さは安土城に劣るが、床面積は広大で内装ピカピカであったとされる。正室のねね(北政所)が本丸を取り仕切っていて、次々とお手付きにする側室たちは別棟で生活していた。そして、秀吉の没後、ねねは城を後にし、茶々(淀君)が城の主になる。

大坂の陣については、別に触れるとして、家康は、姫路・大坂・名古屋に巨城を築くのだが、それは、次に徳川を襲うのは「島津」である、と認識していたからだ、というそうだが、それは正しかったのだが、城は役に立たなかった。二代目の城郭は、初代の焼け落ちた城跡に土をかぶせて、その上に築いた。城郭の面積は1/4だが、天主閣は以前より大きくなる。この土盛りの結果、マラソンコースの難所になったわけだ。そして、二代目の天主の位置は初代の位置とは異なっているのだが、色々と資料を見ると、どうも、この初代の城の位置は現在の城の東側100メートル付近のようでもある。現在(三代目)の天守閣は、二代目の位置に建てられている。

そして、1665年に天主閣が炎上してしまうが、再建されなかった。ほぼ同時期に火事で焼けた江戸城天主閣も再建されなかったのだから、驚くに値しないが、1928年に鉄筋コンクリートで再建されたことの方が驚きなのだ。

42280616.jpgまず、二代目の場所に建てられたのだが、デザインも基本的には二代目を踏襲。といってもあまり記録はないのだが。しかし、最上階には金色の虎が伏せた絵が外壁に描かれている。これは初代の秀吉の時の図柄であると言われる。虎が朝鮮を示すのは明らかだが、城ができたときには、まだ朝鮮攻撃は実行に移していない。つまり、このデザイン問題は、「いつ朝鮮攻撃を考えたのかの」重大な歴史の鍵でもある。あまり調べずに、お飾りにつかわれても困るのだ。

大坂冬の陣の時には、城郭の北西側にある備前島から徳川方が射程6.5キロメートルのカルバリン砲で砲撃、これが淀君の近くに被弾したことから、第一次講和条約成立。そうなると、定説の場所より、西ではないかとも思うが詳細不明。今頃、あちこち発掘しているようだ。発掘が遅れているのは、大阪特有の人権問題と関係あるのだろうか?これも不明だ。

中学生か高校生の団体が見学に来ていて、ガイドさんの声に対して大きな笑い声が聞こえてくる。耳をすますと、団体は韓国からのようだ。天敵である秀吉の本拠地で笑い声が聞こえてくる、というのは、ガイドが何かをしゃべっているからなのだが、私は韓国語は知らない。が、推して知るべしだろう。「侵略者秀吉が天罰で亡くなった後、妻と子どもは成敗され、今や地面の下のほうに埋まっています。ご安心ください」とかだろう。


そして、この大阪城公園というのは、大坂の陣の時には、徳川15万人、豊臣5万人が斬り合いをした、日本史上有数の惨劇の場であるのだが、その痕跡は何一つ残っていない。JR大阪城公園駅と森ノ宮駅の間は日本最大のホームレス族によるブルーシートの巨大ベッドタウンになっているのだが、木々が生い茂っていて、あまり貧相には見えない。変な話だが、ブルーでなくグリーンのビニールシートを使っているなら、「日本のボヘミアン地帯」ということになるのかもしれない。

ところで、現代に残る、大坂城はかくのごとく、たこ焼きのような大阪的アバウトさの産物なのだが、収蔵品の中に「超おタカラ」があることがわかった。

「大坂夏の陣図屏風」。

金屏風仕立てになっていて、右半双の右隻と左半双の左隻とに分かれる。黒田長政が戦後、記録を残すため、絵師に描かせたと言われる。特に、戦場の様相を描いた右双よりも、大坂城炎上の後、敗残の兵や京都方面に逃げる一般市民を待つ数々の戦争悲劇をリアルに描いた左双が優れている。日本史上で超一級品なのが右側で美術史上で超一級品が左側とも言える。これは、天主閣の6階でビジュアル化され、ナレーション付きの動画で見ることができるのだが、それだけでは飽き足らず、財政危機の大阪市の役に少しでも立つのではないかと、300億円の巨額にて購入してきたのである。将来、おおた美術館創立の際には現物を展示することにして、この屏風絵について、今後、ボチボチとブログ上で紹介していきたいと思う。

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