浅野内匠頭終焉の地

2007-02-07 00:00:39 | 美術館・博物館・工芸品
6364a61a.jpgJR新橋駅の近く、外堀通りと日比谷通りの交点が西新橋交差点。そこから日比谷通りを芝方面に5分ほど歩くと、歩道の最も車道側の端に石碑が立っている。刻字面が車道側を向いているので、歩いているとよくわからないが、道路の反対側に回ると「浅野内匠頭終焉の地」と刻まれている。そして、そこには、東京に数軒だけ残っている囲碁・将棋の超高級盤を扱う「中村碁盤店」が店を構えている。

要するに、忠臣蔵では脇役の浅野長矩が、元禄14年(1701年)3月14日のホワイトデーに江戸城内で、吉良上野介に対し、「エィッ」となぜか長刀でなく脇差で斬りつける。刃渡りが短かったからか、深手を負わすこともできず、ただちに捕縛され、網駕籠に入れられ、たまたま奏者番だった陸奥一関藩主、田村建顕の屋敷に預けられる。そして、運悪く当時の将軍は、お犬将軍さまだった。人間の命はかなり軽いものと考えていたらしく、即日、切腹が決定。あっと言う間に幕府の介錯人が、この田村家を訪れ、腹を切らせた上、胴体と首とを切り離してしまった。

そして、この話は、その後、忠臣蔵という芝居になり、その芝居の脚本通りに、数年後、吉良上野介は浪人たちに両国の屋敷を討ち破られる、というのはまったくの歴史的順番違いなのだが、実際、忠臣蔵ほど手垢まみれになった史実もめずらしい。しかし、当時、多門伝八郎という目付が、記録を残していて、この記録書が歴史的事実とフィクションの世界を分ける決め手ということになっている。

しかし、もちろん、江戸初期のこととて、はっきりしないことは多く、なぜ、田村家に預けられたのか、というのも推測の域に入るのだが、当主の田村建顕は外様ながら綱吉に寵愛されていて、譜代扱いの役目を預かっていたらしい。不浄者として浅野を江戸城から追い出す時に、本当は外様なので遠い屋敷にいながら、譜代のように気安く頼める殿様、という条件に合致したのではないだろうか?(と、さらに新たな珍説を加える)


6364a61a.jpg実は、ここからが本題になるのだが、この中村碁盤店の老店主の話がある。切腹したのは、この碑の場所ではなく、もっと奥の方、というのだ。記念碑を建てる段になって、日比谷通り沿いの地点が選ばれた、というのだ。そこで、Yahoo!古地図で確認すると、なんと日比谷通りは江戸時代は存在していなかった。江戸時代の大通りは、愛宕下大名小路といって、一本海側にずれている。Yahoo!古地図は幕末の地図なので忠臣蔵からは150年下っているが、そこに田村屋敷があることから、この地図上の田村屋敷の庭先で「ハラキリ&クビキリ処分」が執行されたのだろう。となると中村碁盤店とは幾分位置が異なる。さっそく、現地を探すと・・

何しろ、現在、このあたり一帯は大工事が進んでいる。戦後60年経過してから突然動き出した「マッカーサー通り計画」だ。外堀通りに面する虎ノ門JTビルの前から虎ノ門病院正面を突きぬけ、住宅もビルも全部なぎ倒して汐留方向に巨大道路を貫通させ、さらにレインボーブリッジと並行して海に巨大な橋を架け、有明からさらに海の果てまで一気に結ぼうという工事である。そして、既に、このあたりはほとんどの建物が解体されているのだが、なんと、超ミニ鳥居がある。田村銀杏大明神。田村神社である。そして、地図の上で推定した現場は、ちょうどこのあたりなのだ。

つまり、マッカーサー通りが完成後は、切腹現場は道路の上になる。終焉の地の碑が現場と異なったところに建つのには、理由があったわけだ。祟りに触れて、事故多発箇所にならないことを祈るしかない。

ついでに、やや不吉な話を書けば、当時の大通りである愛宕下大名小路だが、現在でもきちんとした道筋を保っている。出発点は新橋にある旧第一ホテル(倒産により阪急が再建中)。そして終点の間近にあったのが、ダイエー東京本社(現在、再建のメドが不透明で東京本社は移転)である。

6364a61a.jpgそして、道路建設予定地では、あっちでもこっちでも遺跡調査が行われている。つまり、このあたりは大名の江戸屋敷群だったわけで、掘り返せば、当時の大名家の重要な資料や書面などが発掘されるのだろうか。しかし、要するに割れた茶碗などの生活ゴミを掘り返しているだけともいえるかもしれない。いまだに大判小判金塊の類の出土話を聞かないのは、予想通りということだろうか。

しかし、この綿密な人海戦術による発掘作業を見ていると、この地道な努力こそ「発掘、あるある大辞典」には必要だったのだろう、と思考が横っ飛びするのだ。