写真工業の始めと終り

2006-02-14 00:00:37 | マーケティング
efc81e98.jpg都庁の巨大ビルの裏側、新宿中央公園には妙な記念碑が立っている。「写真工業発祥の地」というチョッと卒塔婆を思い起こさせる白い碑の横側には、過去帳ではなく、この地の由来が書かれている。

この地は、明治35年5月、小西本店(現・コニカミノルタ)が、写真感光材料の国産化を図り、研究所と工場(六桜社)を建設し、製造を始めたところである。同社は、さらにカメラの製造も始め、写真フィルムの国産化にも成功した。その後、昭和38年、新宿副都心建設事業により、八王子・日野へ移転した。今日わが国は、世界の写真王国となっているが、その礎は、この地で築かれたものである。
 昭和58年5月1日


つまり、小西という会社が六桜という会社でフィルムの生産を始めたということ。小西六という会社の名前はここからなのだろう。それにサクラカラーというのも六桜社からだろう。

しかし、明治35年というのも古い。妙な話だが、今、調べている赤い靴のモデルの「きみちゃん」と同い年だ。きみちゃんは7月生まれだ。

今でも写真の現像には大量の水が必要で廃液の処分には困るのだが、当時はどうしたのだろう。なにしろ、このあたりは浄水場だったはずだ。まあ、そういう事情は時代とともによくわからなくなる。富士フィルムやキャノン、ニコンなどはホームページに会社の略歴が細かく記載されているが、なにしろ、小西六はコニカと社名が変わり、さらにミノルタと合併してコニカミノルタになってしまい、ホームページには歴史の記載はほとんどない。それに工場が移転したのが昭和38年とすれば1963年だから、46年前のこと。当時の事情を知る人間も既にいないのだろう。

そして、コニカミノルタはとうとうフィルム事業撤退。さらにカメラ事業はソニーに売却。残るは、コピー機市場なのだが、競争は厳しい。だいたい、カメラ関係をやめるなら、合併したことも変だとおもう。市場環境の変化が早すぎたのだろうか。そして、フィルム業界のことでいえば、富士もコダックも工場縮小でリストラを行う。ハリウッドでの使用フィートが短くなったのも大きな原因だ。

さらに、カメラ市場では、ニコンが事実上、アナログカメラから撤退(入門機と最高級機だけ残す)するのだが、これは驚いてしまった。一つは、トップ技術の企業ということ。そして二つ目は、過去に生産したレンズ群の始末はどうするのだろうということだ。多くのレンズはFマウントといって、とりあえずデジカメにも使えるが、制御方法の多くはマニュアルになってしまう。

ニコンとてレンズなしで、ただのデジカメメーカーとなってしまえば競争優位を保つのは難しい。そして、各地の写真学校が困っているようだ。何しろ、アナログカメラがないと、写真撮影の原理を説明しにくい。

かくして、ディジタル化が進むと、過去の機械・器具が廃れてしまい、本来の原理がわからなくなってしまうのではないかと思ってしまう。おおた家には、高精度の天秤はかりがあるのだが、これはある私立の学校法人からの流出品である。おそらく、実験前に試薬類の重さを量るには「ディジタルはかり」を使うようになっているので、天秤は永久追放になったのだろう。しかし、天秤の原理はおよそ説明できそうだが、ディジタルはかりの原理を説明するのは難しい。カメラも同様だ。


ところで、写真工業の出発点である新宿西口には同じく写真関連会社があるが、こちらはますます商売大繁盛となっている。その会社の名前は、「ヨドバシカメラ」である。しかし、創業100年まで健在かどうかは、保証の限りではない。