さらに赤い靴を追いかけて

2006-02-10 08:43:17 | 赤い靴を追いかけて
c35b9f4e.jpg赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて行っちゃった
よこはまの波止場から 船に乗って 異人さんにつれられて行っちゃった
野口雨情作詞(大正10年) 本居長世作曲(大正11年)


この有名な童謡のいわれと、モデルとなった”きみちゃん”の悲しい9年間の歴史については、12月3日「赤い靴の秘密に迫る」に記載した。しかし、客観的な事実とまだいくつかの違和感を感じていた。


12月3日に書いた内容は、北海道新聞の菊地記者が昭和48年から6年をかけて調査した内容をもとに、多くの方によって書かれた、「赤い靴物語」を下敷きにしている。再び概略を書くと、物語は、きみちゃんそのものと、赤い靴の童謡の誕生と二つにわかれる。

まず、実在のきみちゃんは、静岡県清水市で「岩崎かよ」という女性のこどもとして生まれる。明治35年7月15日。父親は登録されていない。未婚の母子である。実際は「佐野安吉」という男との間に生まれたのだが、きみちゃんの出生時には、窃盗犯として刑務所に入っていたそうだ。その後、3年ほどして「岩崎かよ」は青森県鯵ヶ沢出身の「鈴木士郎」と結婚することになる。きみちゃんは、いわゆる連れ子として、新天地の北海道留寿都村に開拓に行くが、厳しい自然の前に失敗。なんとか士郎は札幌で地方紙の記者になるが、薄給でこどもの世話までできず、函館の教会の牧師である「ヒュイット夫妻」に養女に出す。きみちゃん3歳。

そして3年後、牧師夫妻には米国の本部から転勤命令が出ることになり、きみちゃんは米国へ行くことになった。が、夫妻の乗る横浜発サンフランシスコ行きの客船に、きみちゃんは乗っていなかった。結核のため、長旅が耐えられず(あるいは感染防止のためだったかもしれない)、麻布の鳥居坂教会付属の孤児院に引き取られ、3年後に亡くなる。享年9歳。

一方、鈴木士郎、岩崎かよの夫妻は、きみちゃんは米国へ連れて行かれてしまった、と思い込む。そして、大正10年になり、鈴木士郎の友人であった北海道新聞記者であった野口雨情に事情を話したところ、後にこの歌ができる。そして時代は大きく進み、昭和48年に、鈴木士郎、岩崎かよ夫妻のこどもである「岡その」さんという女性が「岩崎きみの妹」と名乗り出て、菊地記者が調べ始めた、ということになっている。


私が、この「きみちゃん」の話に、感じている違和感はざっと、次のようなことだ。

A.きみちゃんの墓碑には、岩崎きみではなく、佐野きみと刻まれている。

B.ヒュイット夫妻は函館や札幌にいたわけだ。一方、鈴木夫婦は北海道新聞。当時といえども郵便を送れば、消息はわかるはず。さらに夫は新聞社という情報に強い職場である。

C.きみちゃんは横浜から船に乗る前に、結核であり、身体を動かせない重態ということになっているが、その後3年間存命である。そして、きみちゃんを日本に残したなら、なぜ、鈴木夫婦に連絡しなかったのか。

私は、麻布や青山の関連地に足を運んだり、ネット上の関連情報を相当量読み込んでみた。もちろん関連する事実なども含め。すると、多くは上記の内容の内数なのだが、とりあえず検証困難な新説もあった。一番、大きな新説は、ヒュイット夫妻はきみちゃんを連れ、欧州から米国へ一旦渡っているというものだ。デンバーの大学院で1年留学した後、一時日本に帰国したというものだ。そして再出国の時、病気で足止めとなった。この説だと異人さんに連れられて行っちゃたけど帰ってきたことになる。さらにこういう説もある。鈴木夫婦は養育困難になると義賊だった佐野安吉にこどもを渡した、というのである。そして一旦、佐野が間に入ったために情報が断絶したというのだ。ありそうでもある。さらに鈴木夫婦と野口雨情とは同室に住んでいたという説と隣家だったという説がある。・・・

また、赤い靴に実在モデルがいるとわかった昭和48年から北海道新聞の菊地寛氏が調査した6年というのも長すぎるように感じる。ヒュイット夫妻のことは早期につかんでいて、渡米してはじめてきみちゃんの痕跡が米国内にないことを知ったのだが、・・

結局、その多くの謎を考える前に、もう一度、菊地寛氏の調査に近付いてみようと思ったわけだ。彼は、テレビ番組を作ると同時に、顛末を一冊の本にまとめていることがわかった。「赤い靴はいてた女の子・現代評論社・昭和54年3月」27年前の出版。

ところが、この本を探して読むのが難儀である。まず、絶版である。さらに現代評論社というのも現存しないようだ。この出版社は過去、左翼系の出版物を多く出しているのだが、「赤い靴」は左翼本なのだろうか?国会図書館の検索ページで見ると200ページを超える。館内で読むには厚すぎる。古本購入の線で考えるが、ネット上で拾えない。

図書館を探すが、私が使える範囲を手当たりしだい検索すると、国会図書館と多摩センターにある都立図書館にはあるが、館外不可。さすがに本場の神奈川県立図書館には、川崎と桜木町に1冊ずつあるが場所が遠い。横浜市立図書館には2冊あって、1冊は館内専用で、1冊は貸出可能となっている。やっと1冊が近付いたわけだ。ところが、なぜか、その1冊は現在貸出中なのである。とりあえず、予約を入れる。ただし、次が私の番かどうかよくわからない。数週間内に、貸出可能になったらメールが来ることになっている。いつまでもこなければ、川崎駅からバスに乗って県立図書館に行くことになるが、実はこちらも現在、貸出中なのだ。ということで、「この続編」はもう少し先に書くことになる(と思う)。なにしろ、その本を読むだけで事が済むのかどうかもわからない。

追記:とりあえず、自力で発見したことの羅列。

ア.北海道新聞の記者の名前は、菊地寛であって作家の菊池寛とは一文字違う。

イ.ヒュイット夫妻が函館から帰米した明治40年頃には、鳥居坂教会を含むメソジスト派が北米では3派に分裂。統一性を保っていた日本側と見解の相違があった。日本では学校教育に熱心で、東洋英和、麻布学園、青山学院、東京女子大などを設立している。

ウ.孤児院の場所、墓地の場所を特定。

エ.麻布十番に、きみちゃんの銅像発見。1989年佐々木至氏の作。近くの洋品店でチャリティ絵葉書を100円で販売している。