ある女帝考

2006-02-09 16:15:42 | 市民A
紀子様の御懐妊というニュースは、絶妙なタイミングで飛び出し、小泉首相や彼の選んだ有識者やヒゲの殿下や政治評論家、記者、そして国民の知能の限界を試そうかという複雑な情況をつくりだしてしまった。もし、男子だったら・・あるいは、もし女子だったら・・現行皇室典範と改定皇室典範案と結果が異なるだけに複雑だ。そして、その性別については、2ヶ月ほどで判明するのだろうが、なかなか関係者は公表しにくい。しかし、いずれ御誕生の時にはすべて明白になる。ベルばらのオスカルというわけにはいかない。

ところで、皇室典範の改定問題は、任期僅かと思われる小泉首相が最近特に力を入れていたのだが、いずれにしても常識的には次の次の代のこと。なぜ、こんなに急ぐのだろうかとは政界でも謎とされているが、後で考えることにする。

先日、日経コラムニストの田勢康弘氏の講演会でも、この問題が取り上げられ、田勢氏は「先送りになり、20年くらいオクラ行きではないか」と予想していた。しかし、彼も小泉首相の動機については、「よくわからない」、と前置きし、政界内での「徳川家康でもできなかったことを、やろうとしている」との声を紹介されていた。

実は、個人的には、この「徳川家康」というところが気になっていた。無論、織田信長が比叡山で3,000人の男女を焼き殺した事件(正確には、明智光秀に実行させ、自らの手は汚していない)を絶賛する総理のことだから、家康アッパーを目指してもおかしくないのだが、さて家康は、天皇から征夷大将軍を拝命し、江戸幕府を開府したのではなかったかと思い、歴史書をいくつか紐解くと、そこに女帝の話があった。さらに浅井長政&柴田勝家の妻であったお市の方の影があったのである。この天皇家と徳川家のことに触れる。

まず、家康。最初は天皇家の御威光が必要だったようだ。なにしろ幕府を開くためには古事によれば、征夷大将軍にならねばならない。足利義昭が追い払われてから幕府という管理機構は消滅していた。だからといって親王制であったわけでもなく、素性の怪しい秀吉の世界になっていたわけだ。一方、徳川家は清和天皇の末裔として源氏一門である。そこらの大名とは違うということで、豊臣政権とは異次元の幕府という機構を作ったわけだ。そして1616年に駿河で亡くなり、2代秀忠、3代家光の時代になる。

秀忠、家光の時代はどういう構造だったかと言えば、老中を中心とした官僚制に移行していった時代であると考えられる。特に従来は3代家光は幕府300年の基礎を作った名君とされていたが、最近の主流は、「男色狂いから女狂いに転向した、好色将軍」というように評判は失墜している。幕府という集団と天皇家をとりまく摂関家との関係という構造だったのだろう。当然、幕府側から見れば、天皇家側は目障りに見えてくる。そして、何かと圧力をかけていた。そういう状態の中で、天皇家側の融和策というか、徳川方からの嫁入り話になる。その時の天皇は御水尾天皇。入内が予定していたのは秀忠の娘、和子である。

ここで、しばし余談の数々になる。まず、御水尾天皇の御水尾だが水尾天皇というのは実は清和天皇の別名だそうである。つまり清和天皇の末裔である徳川家を超越した遺諡ということだそうだ。そして、和子入籍の少し前に女官との間にご落胤がいたことが発覚し、秀忠に詫びている。何しろ秀忠はお市の方の三女(つまり淀君の妹)お江(ごう)を唯一の妻としていた律義者である。つまり和子も豊臣秀頼も千姫も徳川家光もすべてお市の方を基点とした「いとこ関係」にある。そして、和子の呼び方は、入内前は「かずこ」であり、入内後は濁音を嫌う慣習から「まさこ」と呼ばれていた。幕末には逆に天皇家から徳川家へ和宮が降嫁するがどちらも「和」の文字ということが奇縁である。戻る。

ところが、この後水尾天皇の時代は、圧倒的に幕府が天皇家に圧力をかけるわけだ。二つの事件がある。まず、幕府側の春日局が無官であるにかかわらず、宮廷の和子を訪問する。公然のルール違反。次に紫衣事件である。寺院の高僧は当時、天皇家から紫色の衣を賜ることになっていた。もちろん高額の対価が伴うのだが、天皇家の重要な収入源だったのだが、幕府は、乱発されないように幕府の許可が必要ということにしていたそうだ。それに従わないで認可した紫衣を幕府が寺院を回って剥ぎ取ることになる。1629年のこと。そしてついに後水尾天皇は、がまんできずに退位する(しかし上皇としてこの後長く君臨)。そして、次の天皇となったのが明正(めいしょう)天皇だが、和子の娘であり、満4歳であった。「まさこ」の娘が女帝になったわけだ。そして秀忠は藤原家と同様に外祖父という立場に立ったのである。

明正天皇は71歳まで存命だったのだが、1643年、19歳の時に、異母弟で10歳の後光明天皇に譲位。徳川家の血は排除される。後水尾天皇は上皇となり院制を続け、85歳の長寿を誇り、自分の子供4人を天皇にしている。4人目の霊元天皇は16人目の皇子であり、58才の時の子である。家光も多くの子をもうけたがかなわない。寿命47歳だったことと、女性に目覚めたのが遅すぎた。


しかし、冒頭の、「総理の動機」だが、やはりわからない。彼の父親は小泉家の娘婿なので、愛子さまが娘婿をもらうことなど、全然気にしていないのかもしれない。

もしかすると、と一瞬浮かぶのは、「天皇の外祖父の座」を狙っているのではないか、との疑念なのだが、その図式を書こうとすると「長男コータロー君か次男S君か苗字の異なる三男Y君が愛子さまと結婚し、かつ自分が最低130歳位までいないと」ということになる。いや、彼自身独身なのだから・・天皇の父に・・