前川國男建築展に行く。赤レンガ造りの東京駅構内にある東京ステーションギャラリーで3月5日まで。前川國男生誕100年だそうだ。
実は、昨年末にたまたま「前川国男―賊軍の将(宮内 嘉久)」を読んでいたのだが、この「賊軍」という過激なコトバの意味は、前川國男がかなり執念を燃やしていた東京駅前の東京海上ビルの建設をめぐる政治的攻防のことを意味している。現在、東京駅の正面に、駅の赤レンガと同系統の赤タイル貼りの25階建てのビルがあるが、それが東京海上火災(現東京海上日動)ビルである。現代では丸ビルはじめ、多くのビルがメタリックな外装で建て替えられ、この赤いビルと東京駅だけが浮き上がっている(江戸城天守閣が再建されれば外装が銅板仕立てになったはずだが)。
このビルの建築確認申請が東京都に対して提出されたのは1965年のこと。都内のビルの高度制限が撤廃されてすぐの時分である。当初の申請は32階建て130メートル。そしてツインタワーだった。一階は吹き抜けを多用し、広い開放スペースが拡がる。
ところが、しばし棚上げになってしまうのだ。最初の理由は、東京海上も含まれる三菱村内部の力学。当時、脱三菱路線を模索していた収益力のある東京海上と引き留めを狙う三菱銀行、三菱地所が対立。三菱村の一体開発を狙う三菱側が東京海上の新ビル計画を白紙にしようとする。
そのうち、ごちゃごちゃになっていくのだが、当時の首相の佐藤栄作が割り込む。理由は、皇居の前に高いビルを建てたら困るという超法規的なもの。もちろん、法律とは別の観点からの話なので、暗礁に乗り上げる。さらに不沈空母政治家が介入。ついに東京都は匙を国に渡す。一方で、計画ビルに対する構造審査は「建築可」ということに行き着く。
そして政治的決着として、妥協的結論となる。32階を25階まで低くし、130メートルが100メートルになり、ツインタワーは2本がくっついた2連ビルになり、狭くなった分、一階のオープンエアスペースは消滅。かろうじて、2階以上の床面積よりわずかに狭い1階の床面積を利用して、1メートル位の小さな軒をつくるにとどまることとなった。申請から9年後の1974年にビルは完成したが、前川の気持ちは「大敗北」だった。
もちろん、現在はもっと高いビルが林立、一方、三菱村からの脱村を狙う日本郵船は、いまだ低い石造りのビルに入ったまま様子を窺っている。
ということで、前川國男=東京海上というイメージだったのだが、展覧会に行くと、当然ながらその他多数の建物を設計している。戦後の木造バラックまで設計している。結構な量産型だ。デザイン上の最大の特徴は、一階の高床式。ようするになるべく一階を吹き抜けにして空間を確保し、2階以上に建屋をつくる。それが無理だと長いひさしになる。多くの建物は現代に残っているが、横浜のシルクセンターや東京上野の東京文化会館が代表的だ。
そして、数ヶ月前に訪問した弘前市は大のお得意先で、市役所や文化会館にとどまらず火葬場の設計までしていた。知っていれば先日行った時に、一つぐらい見に行ったのだが・・・
実は、彼の師匠はル・コルビュジェという大家中の大家である。パリで師事している。建物を芸術に仕立て上げたのがガウディであるとすれば、コルビュジェは空間を建物で切り取り、空間芸術を提示する主義だ。そして、調べているうちに発見したのだが、前川設計の上野公園入口の東京文化会館の向かいにある国立西洋美術館のマッチ箱型の建物を設計したのはコルビュジェだったのだ。いわゆる師弟対決だ。
本当は、西洋美術館のデザインについては、前々から「古臭いな。フランス人のデザイナーでも使って建て直せばいいのに」と思っていたのだが、口にしていなくてよかった。
実は、昨年末にたまたま「前川国男―賊軍の将(宮内 嘉久)」を読んでいたのだが、この「賊軍」という過激なコトバの意味は、前川國男がかなり執念を燃やしていた東京駅前の東京海上ビルの建設をめぐる政治的攻防のことを意味している。現在、東京駅の正面に、駅の赤レンガと同系統の赤タイル貼りの25階建てのビルがあるが、それが東京海上火災(現東京海上日動)ビルである。現代では丸ビルはじめ、多くのビルがメタリックな外装で建て替えられ、この赤いビルと東京駅だけが浮き上がっている(江戸城天守閣が再建されれば外装が銅板仕立てになったはずだが)。
このビルの建築確認申請が東京都に対して提出されたのは1965年のこと。都内のビルの高度制限が撤廃されてすぐの時分である。当初の申請は32階建て130メートル。そしてツインタワーだった。一階は吹き抜けを多用し、広い開放スペースが拡がる。
ところが、しばし棚上げになってしまうのだ。最初の理由は、東京海上も含まれる三菱村内部の力学。当時、脱三菱路線を模索していた収益力のある東京海上と引き留めを狙う三菱銀行、三菱地所が対立。三菱村の一体開発を狙う三菱側が東京海上の新ビル計画を白紙にしようとする。
そのうち、ごちゃごちゃになっていくのだが、当時の首相の佐藤栄作が割り込む。理由は、皇居の前に高いビルを建てたら困るという超法規的なもの。もちろん、法律とは別の観点からの話なので、暗礁に乗り上げる。さらに不沈空母政治家が介入。ついに東京都は匙を国に渡す。一方で、計画ビルに対する構造審査は「建築可」ということに行き着く。
そして政治的決着として、妥協的結論となる。32階を25階まで低くし、130メートルが100メートルになり、ツインタワーは2本がくっついた2連ビルになり、狭くなった分、一階のオープンエアスペースは消滅。かろうじて、2階以上の床面積よりわずかに狭い1階の床面積を利用して、1メートル位の小さな軒をつくるにとどまることとなった。申請から9年後の1974年にビルは完成したが、前川の気持ちは「大敗北」だった。
もちろん、現在はもっと高いビルが林立、一方、三菱村からの脱村を狙う日本郵船は、いまだ低い石造りのビルに入ったまま様子を窺っている。
ということで、前川國男=東京海上というイメージだったのだが、展覧会に行くと、当然ながらその他多数の建物を設計している。戦後の木造バラックまで設計している。結構な量産型だ。デザイン上の最大の特徴は、一階の高床式。ようするになるべく一階を吹き抜けにして空間を確保し、2階以上に建屋をつくる。それが無理だと長いひさしになる。多くの建物は現代に残っているが、横浜のシルクセンターや東京上野の東京文化会館が代表的だ。
そして、数ヶ月前に訪問した弘前市は大のお得意先で、市役所や文化会館にとどまらず火葬場の設計までしていた。知っていれば先日行った時に、一つぐらい見に行ったのだが・・・
実は、彼の師匠はル・コルビュジェという大家中の大家である。パリで師事している。建物を芸術に仕立て上げたのがガウディであるとすれば、コルビュジェは空間を建物で切り取り、空間芸術を提示する主義だ。そして、調べているうちに発見したのだが、前川設計の上野公園入口の東京文化会館の向かいにある国立西洋美術館のマッチ箱型の建物を設計したのはコルビュジェだったのだ。いわゆる師弟対決だ。
本当は、西洋美術館のデザインについては、前々から「古臭いな。フランス人のデザイナーでも使って建て直せばいいのに」と思っていたのだが、口にしていなくてよかった。