文芸春秋06年2月号(軽く)

2006-02-03 00:00:23 | 書評
0cda9382.jpg私見では、文春は歴史的には右に寄ったり、左に寄ったりと、大きな振幅の中で動いていて、今は、右の端の方から少しずつ戻ってきているところではないだろうか。A新聞とミラー関係のような気もする。

「文藝春秋」を読むのはしばらくぶりだが、ちょっと気になる記事があって2月増刊号を買った。目的の記事は”鮮やかな「昭和人」50人”という特集の中に、”田中清玄”という名前を見つけたからだ。昨年末に、自伝風の書籍を読んだことと、これも年末にこだわっていた、青森県出身の太宰治と接点があったからだ。知りたかった部分は、田中清玄が既に鬼籍に属するのか、あるいはまだ俗世に所属するのか、よくわからなかったからだ。wikipediaでも記載されていなかった。

実際、戦前の日本共産党書記長で戦後はフィクサーに転進した田中清玄の思い出を語るのは「大須賀瑞夫」という方なのだが、残念ながら私の知りたかった「live or dead」は明示されていない。が、よく考えてみると、他の49人の方はすでに過去の方になっていることは既知であるところから推測すると、もう気兼ねなく(あるいは大きな危険なく)彼のことを書けるのだろう、と思う(保証はできないが)。仮にliveだと、今年100歳になる。

それで、この雑誌を購入した目的は終わりなのだが、色々と気になる記事が多いので軽く触ってみる。文藝という文字は冠しているが、この月刊誌は文芸的ではなく、評論的であるので、評論を評論するということになるので、「あくまでも私見としての軽いステップ」を使う。

まず、本誌最高のできは、塩野七生「日本人へ・自尊心と職業の関係」。ローマ崩壊への道のりの中に、成熟の裏側としての失業の問題をとりあげる。植民地経営の中で自動的にもうかるような国家になったため、国民の働くべき創造的な仕事がなくなってきて、遊民としての失業者が増加。職業という形での自己実現ができなくなったところから、国民の意欲がなくなってきたという論である。彼女のすばらしいことは、そういうローマ論のあとに、「だから、日本に似ているとか」など愚論を書かないことだろう。

次に、おどろくことに石原慎太郎が2ヶ所に登場。米国講演録の中から、「中国が沖縄に原爆を落とすとき」。もう一つは対談集として「「NO」と言えるサムライ国家に」。二つ読むと、主張がよくわからなくなる。反中でもあり、反米でもあるのだろうか。ちょっと無理ではないかな。誰がどうみても、今や沖縄が米国から見て、西側の防衛上の要であるのは当然。後は、韓国や沖縄という歴史的にバランサーだった地域の住民が賢明な選択をするか(あくまでも選挙で)どうかなのだろう。
私見としては、キーは、中国に内在する「矛盾」の行方なのだろう、と思うが、詳しい説明は省略。

ところで、慎太郎氏は最近、小泉首相が言い出した「日本橋、空間すっきり策」について、「橋の方を移動した方がいい」と言っているそうだ。さすが「太陽の季節」の作者。思考が自由だ。

そして、本号の売りの一つである、独占会見 -天皇さま その血の重み-「なぜ私は女系天皇に反対なのか」寛仁親王(聞き手・櫻井よしこ)。少し、聞き手が恐ろしいのだが、これを読んで「ああ、いろいろあるんだなあ」と思う人は多いのだろうが、たぶん「皇室典範改革論者」の意見とは、まったく噛みあわないのだろうなあ、と感じてしまう。語弊があるかもしれないが、「天皇家は男子家長制度で、ずっと2600年以上続いていて、そのために側室をおいたり、血縁断絶のピンチの時には、遠い親戚を本家に戻したりしていたではないか。それを、総理などという一時的権威者から婿養子をとれとか、あれこれ言われる筋合いではないぞ、こらっ!」ということを筋の中心において、いかに戦後(今でも)、皇族が虐げられた生活をおくってきたかを訴えている。「国民健康保険にも入れてもらえない」とか。
そして、枕として、親王は尊敬する明治天皇と風貌が似ているということを強調しているのだが・・

「昭和の50人」シリーズでは、私の調べた長谷川町子エントリでは、彼女の人生を追ったのだが、本誌では、「人が好い」エピソードが紹介されているが、若干違和感。柏戸のことを書いた(語った)大鵬が、相撲博物館の館長であることを知る。全体に50人のエピソード集と言える。

詰将棋コーナーの問題は「二上達也作」となっていて、”詰将棋の生き神様”の名前になっているが、神様がこんな陳腐な作を作るわけはないから、下請け、孫請けの世界なのだろうとは思うが、孫が「盗作」したりすると目も当てられない、という危険がつきまとう(単に老婆心)。(おおた註:この二上達也と冒頭の田中清玄は現函館中部高校「旧函館中学」の同窓生である)

二つの中年論(団塊論)があった。一つは、大前研一の「平成株バブルの天国と地獄」。これの中で、いわゆる「ちょいモテオヤジ」のことを別名「DOM(Dirty Old Man)」と呼ぶ。そして、それを煽るのが「負け犬」という30台の未婚女性だそうだ。銀座や青山ではこの組み合わせのカップルが三つ星レストランの常連で、高級品市場を引っ張るのもこの「DOM」と「負け犬」のセグメントだそうだ。

二つ目は三浦展の「下流社会 団塊ニートの誕生」という偏見に満ちた分析。団塊を8つのクラスタに分類。?ニューファミリー、?社会派、?団塊ニート、?下町マイホーム、?スポーツ新聞、?アンノン族、?ヒッピー、?貧乏文化人。それぞれの特徴を列記するのだが、数で言うと団塊ニート、アンノン族、スポーツ新聞クラスタが多いそうだ。まあ、ろくなものではない。
そして、この論文は最後に団塊男性にトドメを指す。もともと、ばんばひろふみの「いちご白書をもう一度」、を理想として、無精ひげや長髪にしていたものの、今や髪は伸びてこなくなったのだから、無精ひげだけに個性を求めるのだろう。そして、何の役にも立たない無為で「下流」な生きかたこそが団塊世代の青春の理想だった。(ずいぶん手厳しいものだ)

そして、唯一の小説は、川上弘美の「天にまします吾らが父ヨ、世界人類ガ、幸福デ、ありますヨウニ」という、関係者全員を困らせるような長い題名の短編小説。本人とオーバーラップするかのような主人公の女性小説家が、以前からずっと好意を寄せていた男性と、はるか以前に中途半端になったままの恋の肉体的部分の続きを行なおうとタクラムが、するりとかわされる、といった話。実話のように思わせるのが作者の腕なのか、あるいは金井美恵子が自著の中で、「多くの編集者が私(金井)と川上弘美がある男を奪い合って、犬猿の仲だというのは正しくない」と強調している話と同じことを裏側から書いているのか、それはわからない。

しかし、妙なものばかり書いていると、ある都知事やある女優兼歌手の夫のように「芥川賞が生涯最高作」となってしまうので注意が必要だろう(単に老婆心)。(おおた註:ある女優兼歌手の夫が獲得した受賞作「海峡の光」は函館を舞台としているが、著者は函館中部高校とは無関係で、単に東京の遊び人である)