夜の図書館をはしご(下)

2006-02-17 07:33:10 | 赤い靴を追いかけて
藤堂家の家訓のコピーをカバンに入れ、次の目標に向かう。二つ目の目的は「赤い靴さがし」である。数日前に記載した「赤い靴をさがして」。北海道新聞記者の菊地寛氏が1979年(昭和54年)に書いた「赤い靴はいてた女の子」を読もうと思って、図書館情報を調べていたところ、偶然にモデルの女の子「きみちゃん」が亡くなった場所とされる東京麻布にある港区立麻布図書館に1冊存在することがわかったからだ。

広尾から、麻布まで裏道を歩く。伊達家下屋敷のあった仙台坂を下りて、麻布十番温泉方面へ抜け、麻布図書館に行くと、郷土資料室の中に「赤い靴はいてた女の子」があった。貸出期間2週間。そのついでに「きみちゃん」の亡くなった鳥居坂教会孤児院跡の前を通り、鳥居坂を上ってみる。シンガポール大使館脇の急坂を上り切ると東洋英和の敷地が続く。そして鳥居坂教会はこの東洋英和学園と一体化されていることがわかる。少しずつ、事情がわかってくるような感じがある。そして、その道は六本木につながり、ロアビルの横に出る。目の前にはドンキビルがあり、運転中止になった屋上の絶叫マシンのU字型の土台がスマイルカーブを見せている。

9cb55b9c.jpgそして、借出した菊地寛氏の著書を一気に読んでしまった。かなりの部分は、私が想像していた仮説と同じであった。幸いなことに彼の個人的調査は途中から、北海道テレビが全面的にバックアップし、線から面の捜索になったことがわかる。さらに多くの部分的発表を行ってからこの本を書いているため、多くの部分の信頼性は高いと考えられる。

しかし、残念なことに調査の大部分は「きみちゃん」のことよりも、その親たちや家族、養父母の捜索に費やされていて、たどりついた果ての「きみちゃん」の記載は少ない。歴史の壁は昭和40年台でもすでに厚かったのだろう。この追跡が始まったのは、実の妹である女性が昭和48年に名乗り出たことによるのだが、その9年前の昭和39年まで、きみちゃんの養母だった米国人女性は生存していたのだ。

その他、わかったこと多数。もっと調べたいこと多数という状態である。現代評論社というやや左翼系出版社から発行されたのは、この赤い靴の話が平民新聞と関係があったからかもしれない(というのは私の推測)。

ちょっと変わった情報としては、この著者の菊地寛氏だが、「赤い靴さがし」を始めた時は北海道新聞記者であったのだが、この本が出版される前には北海道テレビに入局している。もしかすると、北海道新聞の前身の一つである札幌の北鳴新報の記者だった石川啄木や野口雨情が次々に新聞社を移っていったことを知ったからなのだろうか、とも思ってしまう。(余談だが、明治末年の北鳴新報の発行部数は900部しかなかったそうだから、このブログと大差ないことになる)

そして、偶然わかったのだが、菊地寛氏は野垂れ死同様だった石川啄木や野口雨情とはまったく異なり、平成14年前半まで、北海道テレビの常務取締役を勤めていた。転職成功例。2006年時点では存命であれば66歳のはず。

赤い靴の話をきちんとまとめるには、あとしばしの時間が必要。そして、どういう切り口で書くべきなのかも思考中。