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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪「現地調査」報告 6

2011年01月08日 | 海南島史研究
(五)二〇〇八年春 老欧村、八所鎮

■老欧村で
 オーストラリアのメルボルンで発行された新聞『The Age 』(二〇〇一年四月二四日号)の記事 John Shauble,“The search for the lost diggers of Hainan”(「海南島で消えた豪州兵の捜索」)には、つぎのように書かれている(笹本妙子さん訳)。
    「海南島の西海岸にある孤村ラオ・オーへの埃っぽい道は、ユーカリの木々の香
   しい匂いに満ちていた。六〇年前に中国南部の島でその生を終えた二人の豪州兵
   は、それらが好きだったことだろう」、
    「捕虜たちは、一九四二年二月にオランダ領インドのアンボン島で捕まったり殺さ
   れたりした一一五〇人の豪州兵の分遣隊、ガル部隊の一部だった」、
    「一九四四年四月八日土曜日、彼らが日本の衛兵の管理下で働いていた時、オ
   ーストラリア海南分遣隊の24人のグループがバンボンに向かう途中、バスオ港の
   収容所から北に数キロ離れた所で、一〇〇人の中国人ゲリラに襲撃された。
     ゲリラが共産軍だったか国民軍だったかははっきりしない。九人の豪州兵が
   即座に殺され、五人は収容所に連れ戻され、一〇人は行方不明となった。
     ラオ・オーは、島の共産ゲリラの拠点だった。フー・ティェンシャン(七五歳)
   は、二人の豪州兵――一〇人の行方不明者の一部と思われる――が自分の村に
   連れて来られるのを見たことを覚えている」、
    「彼らを忘れていなかったもう1人の人物は、シン・リシンというシナリオライ
   ターで、ドンフェン文学美術協会の会長だった。彼が書いたラオ・オーの二人の
   兵士の物語は、「感謝祭の場所」というタイトルでテレビのミニシリーズに作ら
   れ、一九九六年に中国のテレビで放送された。シンの調査によれば、ラオ・オー
   村は、二人のオーストラリア人を匿っていると見なされ、そのゲリラ活動への報
   復として日本軍の残酷な攻撃を受けた。1度の攻撃で、四八人の村人が殺され、一
   〇〇軒以上の家が破壊された」、
    「解放からちょうど一年後に、彼らはマラリアで死んだ。“彼らが何という名前
   か、誰も知らない”と、村の元幹部のガオ・チャンロンは語る」、
    「二人の豪州兵の墓は今も見ることができる。……骨は、一九八〇年代半ばに始
   まったオーストラリア陸軍の調査の後に掘り起こされた」、
    「クィン・ジー・ホァンは、かつて捕虜たちが匿われ、今は廃屋となった家を開
   け、彼らが寝ていた薄汚れた部屋を指さした。“彼らは日中は村から出ていったが、
   またここに戻って食事し、眠った”」。

 ここに書かれているラオ・オー(Lao Ou)は、老欧村である。
 海南省政協文史資料委員会編 『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下(一九九五年八月)に掲載されている邢力新「日軍侵占昌感后的第一樁血案」(呉陸栄編集)には、つぎのように書かれている。

    「一九三九年農暦九月五日、海南島侵略日本軍駐北黎横須賀第四特別陸戦隊
   司令部は、昌感県の抗日民主根拠地老欧村(現羅帯郷老欧村)に軍隊を派遣し
   包囲し、老欧村の村人を殺戮した。
     この日未明五時ころ、五〇〇人以上の日本兵が、迫撃砲、重機関銃、軽機関
   銃で村を襲った。
     大きな柵をつくり豪を掘って守っていた二〇人以上の青年抗日隊が、長銃など
   で反撃した。戦闘は激烈だった。多くの村人が、敵の砲撃のなかを、青年抗日隊に
   水、食料、弾丸を運んだ。青年抗日隊と村人は一体となって敵の侵入を阻止した。
     日本軍は、人質を捕らえて脅し、南方の裏道から村に入る道を案内させた。こ
   のことを知った青年抗日隊は、山奥の原始林に撤退した。村人も、山に逃げた。逃
   げ遅れた村人は、以前からつくっておいた土の穴に隠れた。
     日本軍が入ってきたとき、村には人影はなかった。日本軍は、家に放火した。日
   本軍についてきた漢奸が、“早く火を消せ”と叫んで、土の穴に隠れていた村人を誘
   いだした。……
     日本軍は、村内や山林をくまなく捜索した。……一日の間に、村人四八人が殺
   された。
     このあと、老欧村の村人は、この日を“忌日”とし、毎年、この日には殺生せず
   笑わず、死者を悼んでいる」。

 「海南島で消えた豪州兵の捜索」で「シン・リシン(Xing Lixin)というシナリオライター」と書かれている人は、邢力新(Xing Lixin)さんだと思われる。二〇〇八年四月一一日に東方市政治協商会議文史委員会で聞いたら、邢力新さんは、数年まえに亡くなられたとのことであった。

■海南島における「連合軍捕虜」
 海南島における「連合軍捕虜」にかんする日本軍文書はほとんど公開されていないが、「海南警備府海南部隊命令一一号」には、「第一五警備隊司令及横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令ハ各所管内ニ於ケル白人俘虜ノ取締並ニ同収容所ノ管理ニ任ズベシ」(一九四二年五月三〇日、海南警備府司令長官砂川兼雄)と書かれている。
 また、「海南警備府海南部隊命令一一号」の翌日、同じく海南警備府司令長官砂川兼雄の名でだされた「海南警備府俘虜取締細則(海南警備府法令第8号、一九四二年五月三一日)には、「俘虜不従順ノ行為アルトキハ仮借スルコトナク厳重ニ之ヲ処罰シ……」と書かれている。
 一九四二年五月一八日づけの「海南警備府命令」(機密海南警備府命令第九号)には、「香港総督部ヨリ三亜ヘ移送スベキ印度人俘虜三〇〇名ノ輸送警戒」が三亜の第一六警備隊に対して命令されている。
 これらによると、「白人俘虜」の管轄は海口の第一五警備隊と八所の横須賀鎮守府第四特別陸戦隊であり、「印度人俘虜」の管轄は三亜の第一六警備隊であったようである。

■二〇〇八年四月 老欧村を訪ねて
 「海南島で消えた豪州兵の捜索」には「海南島の西海岸にある共産ゲリラの拠点だった孤村ラオ・オー」と書かれているが、老欧村は、西海岸から八キロほど東に入った平地にある。捕虜収容所があった八所村から直線で南東一五キロほどである。村につくと、すぐに当時のことを知っている符天祥さんに会うことができた。
 「海南島で消えた豪州兵の捜索」に「フー・ティェンシャン(七五歳)は、二人の豪州兵が自分の村に連れて来られるのを見たことを覚えている」と書かれているが、そのフー・ティェンシャンさんは、符天祥さんのことであった。符天祥さんは、ちょうど庭で農作業をしていた。
 自宅前の作業場で、符天祥さんはつぎのように話した。
    「一九三九年農暦八月二八日に、北黎にいた日本軍が、はじめて老欧村に来た。
   このとき日本軍は村の中まで入らないで北黎に戻った。北黎に日本軍の司令部が
   あった。
     五日後、農暦九月5日に日本軍がまた来た。日本軍は、朝八時に村を包囲し、
   一一時か一二時ころまで、攻撃を続けたが、村の中に入ってこられなかった。
     当時、村の周りに壕が掘ってあった。午後、奸漢といっしょに村に入ってき
   た日本軍は、村人をたくさん殺した。
     それから何年もたったある日、英国人捕虜二人が、村に来た。あのときは、
   英国人だと思っていたが、あとからオーストラリア人だということがわかった。
   二人を連れてきたのは抗日軍だった。抗日軍の指導者が二人をかくまってくれと
   いうので、村でかくまうことにした。
     ある人の納屋に住んでもらうことにし、食事を運んだ。しかし、二人とも弱ってお
   り、あまり食べなかった。わたしたちが食べる物を食べなかった。まもなく病気にな
   った。村には病院がなかった。薬草を煎じて飲ませたが、死んでしまった。遺体を、
   村のはずれに埋めた。
     何年か前に、オーストラリア政府の人と東方市外事部の人たちが来て、墓のそ
   ばに記念碑を建てた」。

■「海鴎支隊紀念碑」
 証言を聞かせてもらったあと、符天祥さんに二人のオーストラリア兵の墓に連れていってもらった。
 村はずれの一〇〇平方メートルほどの敷地の入り口には、樹の枝を組み合わせた門があり、その前に、「中澳友誼紀念碑 敬請各村民愛護」と書かれた石板が立てられていた。そこから「紀念碑」まで幅二メートルほど、長さ一〇メートルあまりの舗装された道がつくられていた。
 敷地の真ん中に二人の墓があり、その横に二〇〇二年に建てられた「紀念碑」があった。五〇センチほどの台座のうえに、幅二メートルあまり、高さ1メートル半ほどの楕円形の石が置かれ、「海鴎支隊紀念碑 1942‐1945 澳大利亜与中国」、「GULL FORCE 1942‐1945 Australia and China」という文字と説明文と捕虜収容所に位置を示すアジア太平洋地図が書かれた銅板がはめこまれていた。
  その銅版には、つぎのようなことばが、漢語とイングランド語で書かれていた(冒頭部の「一九三九年から一九四五年までの第二次世界戦争中に」というのは正確な記述でないが、原文のまま翻訳)。

    「一九三九年から一九四五年までの第二次世界戦争中に、二万二〇〇〇人を越
   すオーストラリア人の男性と女性が、日本の戦争捕虜となった。その多くは、
   “シンガポール陥落”のさいに捕らえられた人たちだが、オーストラリア北方諸
   島を防衛しようとする連合軍の作戦が失敗したために捕らえられた人もいた。捕
   虜とされた人々は、未曾有の非人道的で残虐な扱いを受けた。
     一九四五年八月の日本敗戦時までに、三分の一以上のオーストラリア人捕虜
   が死亡した。中国海南島の東方市で死んだ人もいた。
     一九四二年はじめに、アンボン防衛中に捕らえられた二/二一歩兵大隊所属
   のオーストラリア兵二六三人が、九か月後に、日本人の奴隷労働者として、海南
   島の八所港に輸送された。粗末な捕虜収容所が西海岸の八所に作られた。食べ
   物はいつも乏しかった。多くの中国人が、死の危険をおかしながら、捕虜にひそ
   かに食べ物を売った。
     オーストラリア人、オランダ人、インド人、そして何千人もの現地中国人労働者
   が、二年半の間、毎週七日酷使され、日本人のために軍事施設や経済施設
   (infrastructure)を建設させられた。
     残虐な扱いに耐え切れず、何人かのオーストラリア人捕虜が脱走した。かれら
   のなかには、地域の反日武装部隊に参加したものや武装した老欧村に隠れたもの
   がいた。二人が病死し村人たちによって埋葬されたが、ほかのものの生死は不明
   である。
     すべての日本の戦争捕虜収容所で、残虐行為がおこなわれた。もっとも残虐な
   ことのいくつかは、アンボンと海南島でおこなわれた。海南島の中国人は、それよ
   りもさらにひどい扱いをうけ、何千人もが記録されることなく消し去られた。アン
   ボンで捕らえられたほぼ一一〇〇人のオーストラリア人の約七〇パーセントが、餓
   えや殴打や処刑によって日本人に殺された。
     残虐な扱いを受けたが、オーストラリア人捕虜は、魂の自立性を失わなかった。
   しかし、多くのものは、身体にも心にも傷を負って故郷にもどった。
     中国とオーストラリアは、これらの人びとの犠牲を決して忘れない。かれらはい
   つまでも両国を結びつづけるだろう」。
 
 この碑は、二〇〇二年に、オーストラリアのダーウィン市議会が、東方市と市(ダーウィン市の姉妹都市)の協力のもとに建立したもので、同じ銅板がダーウィン市にも置かれているという。
 一九四二年一一月五日に海南島西海岸の八所に連行されたオーストラリア兵の1人、トム・プレッジャーさんの日記の日本語訳を、ウェブサイトで見ることができる。http://members.ozemail.com.au/~pledgerp/jplepow.htm
 その一九四四年四月八日の部分には、つぎのように書かれている。
    「日本人の見張りと二〇人の我々の仲間が、トラックで丘陵地帯に労役のために
   出かけていったところを、ゲリラに襲われ9人が殺され、一〇人が捕らわれ行方が
   分からなくなり、五人は無事だった」。

 このとき「行方不明」となった一〇人のうちの二人が、老欧村にかくまわれ、そこで病死したのだと思われる。
 「海南島で消えた豪州兵の捜索」に「村の元幹部のガオ・チャンロン」と書かれている高昌隆さん(一九二七年生)は、つぎのように話した。
    「一九三九年農暦九月五日に日本軍が村を襲ったとき、わたしは一二歳で、児童
   団の団員で、見張りの役をしていた。あの日、日本軍は村に入ってきて、家をぜん
   んぶ焼き、牛や豚やたくさんの物をぜんぶ奪った。村人48人が殺された。あのとき
   日本軍は捕まえた村人を、村の東にあった大きなガジュマルの樹の所に集めて銃
   剣で刺し殺した。わたしの両親は、山に逃げて助かった。
     一九四四年に、八所にいた二人のオーストラリア人が、羅帯の方から人に連れ
   られて村にやってきた。村人はみんなで二人の世話をし、食べものを運んだり、着
   るものをあげたりした。日本軍の飛行機が飛んできたことがあった。二人は、味方
   の飛行機が来たと喜んだが、違った。ことばは通じなかったが、手まねで分かりあ
   った。二人は二、三か月村で暮らしたが、水や食べものが合わず、蚊に刺されて熱
   をだし、下痢をして死んでしまった。
     日本軍に知られないように、村はずれに、村人みんなで埋めた」。
 
 そばで話を聞いていた高昌隆さんの妻、秦成姨さん(一九二九年生)は、
    「一九三九年に日本軍が村に来た時、わたしは山に逃げた。樹の葉で、身体を隠
   した。
     そのあと何年かたって村にイギリス兵が二人きた。一人は背がとても高かった。
   まもなく二人とも死んでしまった」
と話した。

■「老八所」で
 いまの東方市は広大だが、海岸近くに老八所と呼ばれている小さな八所村がある。そこに、オランダ兵捕虜とオーストラリア兵捕虜が入れられていた収容所が、かつてあった。
 ハンク・ネルソン『日本軍捕虜収容所の日々 オーストラリア兵士の証言』(リック・タナカ訳、筑摩書房、一九九五年)には、アンボン島から海南島八所に連行された捕虜は、貨物船からコメなどの荷おろし作業、小川の上に高架をかける作業、水田のなかに道路をつくる作業、砂丘から砂を海に運び埋め立てる作業、材木の切り出しなどをさせられた、と書かれている。
 日本窒素海南興業総務部にいた河野司氏の編著『海南島石碌鉄山開発誌』(石碌鉄山開発誌刊行会、一九七四年)に、八所港とその周辺の地図が付けられており、「旧八所」の西に「捕虜収容所」の位置が示されている。
 老八所の自宅で、符路福さんは(一九二四年生)は、つぎのように話した。
    「むかし、日本軍は、外国人をたくさん捕まえてきた。
     村の南に収容所があった。当時、わ たしたちは、あのあたりを“南辺坡”と呼ん
   でいた。収容所の高さは3メートル半ほどで、屋根はスレートの瓦だった。敷地の周り
   に鉄条網がはりめぐらされていた。広さは、8ムー(五三〇〇平方メートル)ほどだっ
   たと思う。収容所には、二〇〇人あまりが入れられていた。ほとんどが英国人だっ
   た。インド人も少しいた。看守はみんな日本兵だった。
     日本兵は、捕虜が命令に従わないと、すぐに殴った。殴られて殺された人もい
   た。日本兵の殴りかたがあまりにひどいので、見ていた人は泣いた。
     餓死した捕虜も多かったようだ。
     わたしたちの捕虜にたいする感情はとてもよかった。
     捕虜が働かされているのを見たことがある。鉄道を建設したり、道路や排水路
   をつくったりしていた。しかし、直接手まねなどで交流することはできなかった。
     英国人が死んだ時には、なかまの英国人が埋めた。日本兵が、その英国人た
   ちが逃げないように見張っていた。場所は、いまの八所村委員会の建物があるあ
   たりだ。
     捕虜の何十倍もの香港人が連れてこられた。香港人は、食べ物を少ししかもら
   えなかった。餓死した香港人が多かった。病気で死んだ香港人も多かった。身体が
   弱っているから香港人はすぐ死んだ。香港人はたくさん来たが、ほとんどが死ん
   だ。
     村の西側の坡に遺体が捨てられた。そこを、村人は、“万人坑”と呼んでいる。
     そこには、日本軍の監視所があった。いまもその建物が残っている。病気にな
   った香港人を、日本軍は、伝染を恐れてすぐに焼いた。まだ生きているのに焼かれ
   た人もいた。火のなかからはいだしてきた香港人を見た村人がいた。
     もとの八所村は、もっと海の近くにあった。日本軍が来て、港をつくるからと
   いってほかのところに移住させられた。まもなく、そこからも移住させられて、こ
   こに来た。
     朝鮮人を見たことがある。香港人と同じような仕事をさせられていた。朝鮮人
   は香港人よりずっと少なかった。英国人よりは多かった。朝鮮人も餓死した。自分
   は朝鮮人だと言う人がいて、村人はかれらが朝鮮人だということを知った」。

■八所・石碌での死者
 いまの東方市の地域は、中華民国期には感恩県と呼ばれており、その西海岸に八所という小さな村と小さな漁港があった。
 日本軍と日本企業が、石碌から鉄鉱石を運びだし、日本に輸送するために八所港を大型輸送船が停泊できる規模に改造した。その八所港建設工事、石碌―八所間鉄道建設工事、石碌鉱山での採鉱作業などで日本軍と日本企業(日本窒素、西松組など)に酷使された人たちが、二万人ちかく、あるいはそれ以上、命を失わされた。
 一九八八年に、海南島は行政的に広東省から切り離され、新しい省となった。その五年前、広東省人民政府は、「八所港万人坑遺址」を「省級重点文物保護単位」に指定した。一九九四年一〇月に、そこに、「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられた。高さ一四メートル八三センチの碑で、その建設経過は、曾会瓊「“日軍侵瓊八所死難労工紀念碑”興建紀実」(海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下(一九九五年八月))に書かれている。
 東方市政治協商会議文史委員会の鄭瑤新さんが一九九五年九月二〇日付で書いた「日軍修建八所港及制造八所“万人坑”之始末」にはつぎのように書かれている。
    「一九三九年末から一九四二年末までの三年間に、日本軍は、二万人以上の労
   工と千人以上の東南アジアで捕虜にした英国、インド、カナダ、オーストラリア
   の戦虜に、八所潭の荒涼とした砂浜に人口の港をつくらせた」、
    「生き残った労工は、一九六〇人だった。八所港建設、八所―石碌間鉄道建設
   の過程で、三万人を越す労工が埋葬された。いま“万人坑”の砂の下には、遺骨
   が層になって埋められており、風が吹くといたるところに白骨が現れ、見るに耐
   えない」。

 一九四二年一一月一九日付で日本海軍海南警備府参謀長と海南海軍特務部総監が連名で海軍省軍務局長などに出した文書(「海南警備府機密第四〇号ノ二三六」)に海南警備府が作製した「石碌鉱山開発状況調査書」(一九四二年一一月)が添付されている。そこに、つぎのような記述がある。
    「開発開始以来十一月始迄ニ死亡セル者職員三十一名人夫実ニ四〇七六名ヲ
   算スルノ惨状ヲ呈シ十一月一日ニ於ケル総員数一四五四二名ニ対シ休業入院者
   四〇九八名ニ達シ居ルヲ見レバ広義ノ労務管理ガ如何ナル状況ニ在リシヤヲ窺
   知シ得ベク……」、
    「従来漫然ト一西松組ノミニ請負ハシメ而モ確固タル契約ヲ締結スルコトナク只西
   松組ノナスガ儘ニ放任シアリタリ」。

 老八所村で生まれ育った符貴発さん(一九六二年生)は、「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」から三〇〇メートルほど離れたエビの養殖池で、
    「子どものころ、よくここに牛を連れてきて草を食べさせた。
     すこし掘ると骨がでてきた。頭蓋骨を見たこともある。ここも“万人坑”だ。
      ここから、あの碑のあるところまで、ずっと“万人坑”だ。碑をつくるとき、
    すこし骨を集めたようだが、全部は集めなかった。ここには、骨がまだたくさん
    埋められたままだ」
と話した。
 八所地域や石碌地域を軍事支配していた日本海軍部隊は、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊であり、八所港建設・石碌―八所間鉄道建設・石碌鉱山採鉱をおこなっていた日本企業は、日本窒素と西松組(現、西松建設)であった。