鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」の「二、戦争時期在中国的台湾人」の要旨はつぎのとおりである。
佐藤正人
1937年に中日戦争が勃発し、日本本土と台湾は同時に「戦時体制」にはいった。「戦時体制」のもとで、政府は社会の各層を動員し、物資と人力の提供を要求した。1938年に日本は「国家総動員法」を通過させた。その第一条には、「」と明記されていた。
台湾は日本の植民地であったため、台湾人は植民地母国人民のもつ公民権をもっていなかった。したがって、戦争の初期には台湾青年には兵役の義務はなかった。しかし、軍夫として台湾人は戦場に動員された。
盧溝橋事件の2か月後、上海の戦況が激化した。
1937年8月29日、台湾軍司令官古荘幹郎は、台湾防衛ための緊急情況になったので、中国南部の軍事基地を攻撃するという命令をだした。9月7日に上海派遣軍の支援依頼をうけて、重藤支隊は上海飛行場建設をおこなうことになったが、台湾軍には輜重隊が配備されていなかったので、台湾総督府に軍傭人を提供することを要求した。このとき臨時に徴集された軍傭人を、日本政府は白襷隊と命名した。
1937年9月12日、13日に、五千五百の重藤支隊が基隆から上海に出発した。台湾軍に従って上海などに白襷隊が行ったが、おそらくこれが第2次大戦中における台湾からの最初の海外への軍夫の「輸出」だろう。
日本軍が海南島を占領したのち、軍事動員された多数の軍属と民間人が台湾から海南島に送りこまれた。当時日本軍は海南島で、民間事業といういう形式で、鉄鉱石を採掘していた。関係会社は、台湾で労働者を募集し、海南島で採鉱させた。
台湾は日本の植民地だったので、日本の対外侵略戦争が拡大するにしたがって、台湾人は戦争にまきこまれないわけにはいかなかった。戦争が激しくなると、多くの台湾人の生活が苦しくなった。日本政府は、高い賃金で台湾人を海外での仕事に募集するとともに、台湾で一連の軍事制度の改革をおこない、兵役義務のない植民地人を志願兵とした。1943年に陸軍と海軍の志願兵制度が実施されるとともに、徴兵制も実施されそうになってきた。これらの兵役制度の変革は、台湾青年が軍属として海外に行く気運をもたらした。台湾青年は、軍属として軍隊の後方にいるほうが、志願兵あるいは正式の兵士より楽だと考えていたからである。
佐藤正人
1937年に中日戦争が勃発し、日本本土と台湾は同時に「戦時体制」にはいった。「戦時体制」のもとで、政府は社会の各層を動員し、物資と人力の提供を要求した。1938年に日本は「国家総動員法」を通過させた。その第一条には、「」と明記されていた。
台湾は日本の植民地であったため、台湾人は植民地母国人民のもつ公民権をもっていなかった。したがって、戦争の初期には台湾青年には兵役の義務はなかった。しかし、軍夫として台湾人は戦場に動員された。
盧溝橋事件の2か月後、上海の戦況が激化した。
1937年8月29日、台湾軍司令官古荘幹郎は、台湾防衛ための緊急情況になったので、中国南部の軍事基地を攻撃するという命令をだした。9月7日に上海派遣軍の支援依頼をうけて、重藤支隊は上海飛行場建設をおこなうことになったが、台湾軍には輜重隊が配備されていなかったので、台湾総督府に軍傭人を提供することを要求した。このとき臨時に徴集された軍傭人を、日本政府は白襷隊と命名した。
1937年9月12日、13日に、五千五百の重藤支隊が基隆から上海に出発した。台湾軍に従って上海などに白襷隊が行ったが、おそらくこれが第2次大戦中における台湾からの最初の海外への軍夫の「輸出」だろう。
日本軍が海南島を占領したのち、軍事動員された多数の軍属と民間人が台湾から海南島に送りこまれた。当時日本軍は海南島で、民間事業といういう形式で、鉄鉱石を採掘していた。関係会社は、台湾で労働者を募集し、海南島で採鉱させた。
台湾は日本の植民地だったので、日本の対外侵略戦争が拡大するにしたがって、台湾人は戦争にまきこまれないわけにはいかなかった。戦争が激しくなると、多くの台湾人の生活が苦しくなった。日本政府は、高い賃金で台湾人を海外での仕事に募集するとともに、台湾で一連の軍事制度の改革をおこない、兵役義務のない植民地人を志願兵とした。1943年に陸軍と海軍の志願兵制度が実施されるとともに、徴兵制も実施されそうになってきた。これらの兵役制度の変革は、台湾青年が軍属として海外に行く気運をもたらした。台湾青年は、軍属として軍隊の後方にいるほうが、志願兵あるいは正式の兵士より楽だと考えていたからである。