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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「海南島的台湾兵」 5

2011年01月23日 | 海南島史研究
 鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」の「三、海南島佔領與台湾兵」の「(三)台湾兵在海南島的職務」の前半の要旨はつぎのとおりである。
                                     佐藤正人

 日本陸軍が台湾軍属を徴集するときの名称は、勤労団、農業団、陸軍工員などであり、海軍は、海軍工員であった。初期の攻防戦のあと、海南島は海軍が管理し、海軍基地とした。
 当時、海南島には、自動車道路は少なく、鉄道はなかった。日本軍占領以前に、国民政府はイギリスから借款して鉄道建設を準備し、鉄路開発計画を発表していた。日本占領後、海南島一周鉄道建設が開始された。楡林港付近に優良な鉄鉱石と若干の工業原料鉱石があった。日本は、海南島の農業、林業、畜産業の調査と改良をおこなった。海南島の治安を維持し中央山地の土匪と共産党を掃滅させるために軍事施設を整備した。これらの開発計画と防禦工事にはおおくの人力が必要であった。
 当時、日本の海南島工作は日本人、台湾人、朝鮮人がおこなった。日本軍が徴集あるいは募集した海軍工員のほかに、三井、三菱、台湾拓殖会社などの民間会社が台湾人労働者を使った。当時、海南島には、これらの日本籍台湾人が1万人以上いた。
 台湾で新しい兵役法が実施されてからは、服役年齢に達した台湾青年は、民間人として海南島に行った者も、現地召集されて軍隊に入った。海軍の軍属は、施設部、軍事部、海軍警察、特務部の4つの部に分けられた。
 日本は、占領後の海南島の治安を維持するために、台湾で巡査補を募集した。当時、中央山地には依然として共産党の軍隊と遊撃隊が根拠地を築いていた。日本は、海南島を海3種の地域に分けていた。海南島外周の海岸地区では警察隊が治安を担当し、沿岸地区と山岳地域の中間は警察隊と海軍陸戦隊が共同して行動し、五指山区では、遊撃隊や共産党の攻撃を受けることがおおかったので、陸戦隊が守備することになっていた。
 しかし、事実上は、海軍陸戦隊の警戒地域で警察隊が抗日遊撃隊とたたかうこともあった。
 当時、日本は、台湾で「巡査補」を募集し、治安警察力の不足を補おうとした。日本は、海南島で、「巡査補」に月給120元を出すと約束したが、これは、台湾警察の月給の約4倍だった。警察官として募集されたので、おおくの者は海南島で後方の治安維持にあたり軍事的危険はないと考えで応募した。海南島に行くと軍隊に配属され討伐作戦に参加させられるとは考えなかった。

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