鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」の「四、悲惨的戦後経歴」の後半の要旨はつぎのとおりである。
佐藤正人
当時、20歳以上の台湾兵と海南島の青年とはしばしば様ざまな衝突が起こった。そのひとつは那大市で発生したつぎのような衝突だった。事件は、ある海南島人が、日本が以前出していた軍票で尻を拭こうとしたのを、ある台湾兵が制止したことから始まった。双方が言い争ったあと、那大市の収容所にいた台湾兵(主に、巡警と海軍陸戦隊員)の何人かが声援に行った。そのときそれを鎮圧にいった中国軍隊がすぐに発砲して、台湾兵が少なからず死亡した。このような大規模な衝突のほかにも、1人でいた台湾兵が海南島人に取り囲まれて殴られ重傷を負わされることもあった。それで、ほとんどの台湾兵は軍隊的編成を維持し自主管理し単独行動をしないようにして不幸な事件が発生しないようにした。
中華民国政府の接収情況の混乱も大きな問題だった。海南島の台湾兵の大部分は自力で台湾に戻ることができないので、国際的な救済会の輸送船に頼らなければならず、日本が投降してから1年以上経った1946年9月から11月の間にようやく戻った。海南島にいた日本人朝鮮人はすべて帰国していた。ビルマ、シンガポール、マレイシア、南洋の島じまなどにいた台湾兵の大部分は1946年5、6月に戻っていた。
1年あまり海南島の収容所に入れられていた台湾兵には、食料がきちんと支給されなかった。一週間分の食料が与えられても、つぎの週には支給されず、倉庫にコメがなくなっている所もあった。収容所では食べるものはなかったが、衣類はあったので、軍用毛布などの衣類を金にかえた。そのため、台湾に着いたときハダカ大隊になっていた。
栄養不良のせいで感染症にかかりやすくなっていたが、国民政府は食料だけでなく薬品も配給しなかった。アメーバー赤痢のような伝染病が流行ったときには、適切な治療を受けることができず、数百人がいっしょに収容されていて患者がきちんと隔離されないため、はなはだしい場合には、一日で7、8人が死亡した。
台湾に戻る日がのびのびになるなかで、自力で台湾に戻ろうとする人たちがでてきた。当時、海南島、香港、台湾を行き来する船が少なくなかった。これらの船は、主に台湾の砂糖などを中国に運んでおり、台湾に向かう船は空船だった。わずかな所持品を売って空船の船倉を借りて、それで台湾に戻ろうとした人たちがいた。この船は帆船で主とする動力は風力だった。船倉には転覆を避けるために重たいものを積んでいたが、そこに100人から200人あまりの人が乗った。気候不良や台風の恐れのほか、多くの海賊に襲われる危険もあったので、無事に台湾に戻れる確立は、4分の1だった。このようにして台湾に戻ることができたのは少数だった。
軍医や運転手などの技術をもっている人は国民政府に留用され、海南島で中国軍の陣営にいれられた人もいた。そのなかには中国大陸につれていかれた人もいた。かれらは、
国民政府が国共戦争に敗北して台湾に撤退するとき、中国に留置された。1987年の台湾開放のあと、外省籍の老兵が中国大陸を訪ねたとき、海南島の台湾兵が「発見」された。
佐藤正人
当時、20歳以上の台湾兵と海南島の青年とはしばしば様ざまな衝突が起こった。そのひとつは那大市で発生したつぎのような衝突だった。事件は、ある海南島人が、日本が以前出していた軍票で尻を拭こうとしたのを、ある台湾兵が制止したことから始まった。双方が言い争ったあと、那大市の収容所にいた台湾兵(主に、巡警と海軍陸戦隊員)の何人かが声援に行った。そのときそれを鎮圧にいった中国軍隊がすぐに発砲して、台湾兵が少なからず死亡した。このような大規模な衝突のほかにも、1人でいた台湾兵が海南島人に取り囲まれて殴られ重傷を負わされることもあった。それで、ほとんどの台湾兵は軍隊的編成を維持し自主管理し単独行動をしないようにして不幸な事件が発生しないようにした。
中華民国政府の接収情況の混乱も大きな問題だった。海南島の台湾兵の大部分は自力で台湾に戻ることができないので、国際的な救済会の輸送船に頼らなければならず、日本が投降してから1年以上経った1946年9月から11月の間にようやく戻った。海南島にいた日本人朝鮮人はすべて帰国していた。ビルマ、シンガポール、マレイシア、南洋の島じまなどにいた台湾兵の大部分は1946年5、6月に戻っていた。
1年あまり海南島の収容所に入れられていた台湾兵には、食料がきちんと支給されなかった。一週間分の食料が与えられても、つぎの週には支給されず、倉庫にコメがなくなっている所もあった。収容所では食べるものはなかったが、衣類はあったので、軍用毛布などの衣類を金にかえた。そのため、台湾に着いたときハダカ大隊になっていた。
栄養不良のせいで感染症にかかりやすくなっていたが、国民政府は食料だけでなく薬品も配給しなかった。アメーバー赤痢のような伝染病が流行ったときには、適切な治療を受けることができず、数百人がいっしょに収容されていて患者がきちんと隔離されないため、はなはだしい場合には、一日で7、8人が死亡した。
台湾に戻る日がのびのびになるなかで、自力で台湾に戻ろうとする人たちがでてきた。当時、海南島、香港、台湾を行き来する船が少なくなかった。これらの船は、主に台湾の砂糖などを中国に運んでおり、台湾に向かう船は空船だった。わずかな所持品を売って空船の船倉を借りて、それで台湾に戻ろうとした人たちがいた。この船は帆船で主とする動力は風力だった。船倉には転覆を避けるために重たいものを積んでいたが、そこに100人から200人あまりの人が乗った。気候不良や台風の恐れのほか、多くの海賊に襲われる危険もあったので、無事に台湾に戻れる確立は、4分の1だった。このようにして台湾に戻ることができたのは少数だった。
軍医や運転手などの技術をもっている人は国民政府に留用され、海南島で中国軍の陣営にいれられた人もいた。そのなかには中国大陸につれていかれた人もいた。かれらは、
国民政府が国共戦争に敗北して台湾に撤退するとき、中国に留置された。1987年の台湾開放のあと、外省籍の老兵が中国大陸を訪ねたとき、海南島の台湾兵が「発見」された。
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