鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」の「結論」の要旨はつぎのとおりである。
佐藤正人
1937に中日戦争が起こってから2か月後、台湾人軍夫が中国戦場に送られた。1939年の海南島占領後、日本は台湾統治の経験を海南島で生かし、海南島の物産資源調査を開始し、民間商社を海南島に引き入れ、日本軍と共同で開発させた。海南島開発のための人力として日本は台湾人を徴用あるいは募集した。台湾人は日本軍と民間会社で働かされた。日本軍で台湾人は、治安と防禦をおこなう巡警と海軍陸戦隊で働かされたり、軍事基地の整備をさせられた。かれらの名義はすべて軍属であり、台湾本島より平均して4、5倍高い賃金で雇用された。軍属にされない者は、脅迫あるいは利益誘導され、志願兵として徴用された。当時青年だった台湾人には、選択の余地はなかった。
戦争中、海南島の台湾兵は、ほかの日本占領地域の台湾兵と同じく、アメリカ合州国などの飛行機の空爆を受けたり、風土病におかされたりした。戦争終結時に海南島では直接的に敵軍と対面しなかったが、占領期間に山地にいる土匪や抗日遊撃隊に対抗した。戦争終結後、台湾はカイロ宣言によって中国に帰属し、日本の植民地だった戦敗国が戦勝国になった。この変化によって、海南島の台湾兵の立場は複雑になった。日本軍の軍票を汚そうとする海南島人と、それを制止しようとした台湾兵との衝突は、台湾兵が自分の戦後の「位置」を把握できていなかったことを示している。台湾兵は国民政府軍に接収され、戦争時の敵が戦後は同胞に変わったが、海南島人は日本人にたいする憤怒を台湾兵に向けた。
国民政府の戦後の接収過程は混乱し、台湾兵は戦後1年以上も収容所で待たされた。おおくの台湾兵は、“戦後、苦難の日々が始まった”と語っている。
佐藤正人
1937に中日戦争が起こってから2か月後、台湾人軍夫が中国戦場に送られた。1939年の海南島占領後、日本は台湾統治の経験を海南島で生かし、海南島の物産資源調査を開始し、民間商社を海南島に引き入れ、日本軍と共同で開発させた。海南島開発のための人力として日本は台湾人を徴用あるいは募集した。台湾人は日本軍と民間会社で働かされた。日本軍で台湾人は、治安と防禦をおこなう巡警と海軍陸戦隊で働かされたり、軍事基地の整備をさせられた。かれらの名義はすべて軍属であり、台湾本島より平均して4、5倍高い賃金で雇用された。軍属にされない者は、脅迫あるいは利益誘導され、志願兵として徴用された。当時青年だった台湾人には、選択の余地はなかった。
戦争中、海南島の台湾兵は、ほかの日本占領地域の台湾兵と同じく、アメリカ合州国などの飛行機の空爆を受けたり、風土病におかされたりした。戦争終結時に海南島では直接的に敵軍と対面しなかったが、占領期間に山地にいる土匪や抗日遊撃隊に対抗した。戦争終結後、台湾はカイロ宣言によって中国に帰属し、日本の植民地だった戦敗国が戦勝国になった。この変化によって、海南島の台湾兵の立場は複雑になった。日本軍の軍票を汚そうとする海南島人と、それを制止しようとした台湾兵との衝突は、台湾兵が自分の戦後の「位置」を把握できていなかったことを示している。台湾兵は国民政府軍に接収され、戦争時の敵が戦後は同胞に変わったが、海南島人は日本人にたいする憤怒を台湾兵に向けた。
国民政府の戦後の接収過程は混乱し、台湾兵は戦後1年以上も収容所で待たされた。おおくの台湾兵は、“戦後、苦難の日々が始まった”と語っている。
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